It's Not About the IP

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劇場クイズゲームにのってみる。

某劇場のクイズゲームにのってみることにしました。

あなたの毎月の給料から、ほんの4500円をスリランカの子供に仕送りすれば、その子は学校に行くことができ、その子の人生を劇的に変えることができるかもしれません。

あなたの貯金から、100万円をワーキングプアの方に与えれば、貧困から抜け出すチャンスをつかむかも知れません。

しかし、あなたは、そういう人たちを助けようとしない。

なぜですか?

あなたの答えは、なんですか?

Ans. 人に人を助けることなどできないから。
でしょうか。

カネは人を助けるか?

カネの価値は、資本主義と民主主義とが密接に結びついた現代社会では唯一絶対の価値基準ということになっていますが、私は絶対という概念が絶対にキライですから、なんとかしてカネの価値を相対化できないものかと悩んでいます。そして学生の頃に地域通貨という考え方を知ったのですが、これはなかなかいいセンいってるんじゃないかとは今も思っています。地域通貨は、カネの価値を、モノの対価としてキチッと捉えなおそうという考え方で、フツウはカネは貯めてるとプラスの利子がつきますが、食べ物とかモノとかってのはフツウ時間が経つと価値が下がりますから、カネもマイナスの利子がつく方が自然なんじゃないか、ということを考えたゲゼルという経済学者がいて、結構素晴らしいんですよね、コレ。

ネバーエンディングストーリー』とかをかいたミヒャエル・エンデはゲゼルの思想にヤラれていて、彼がかいた『モモ』にはゲゼルの思想がふんだんに盛り込まれています。ある平和な町に、ブリブリな資本主義の経営者がやってきて、町の人はみんなそいつの元で働いてカネを稼ぎます。その町の人はみんな平和にのんきに暮らしていたのですが、ブリブリの経営者の元でブリブリと働くようになり、忙しい忙しいといって人の関係はギクシャクするしみんなイライラしてきます。ブリブリな資本主義の経営者は、実はわるい時間泥棒でした。町のハズレに住んでいたみすぼらしい少女、モモはわるい時間泥棒を追い払って、町には笑顔が戻ります。カネとか労働なんてのは、ときに悲劇しか生まないのです。

だから、カネとか労働なんてなくても人間は歌って踊って楽しければ幸せですから、カネを送ることで人を助けた気になるのは、傲慢、というか偏見なんじゃないかと思います。

スリランカの子

私は残念ながらスリランカに親しい友達がいないのでよくわからないのですが、彼らは彼らで歌って踊って楽しいのかも知れないよなーとかは思います。学生の頃にバックパックで寝袋持って東南アジアとかを回ったりしたことがありますが、そのときに学んだのは、環境とかみためとか言葉とか違っても人間なんておんなじなんだなー、うれしいもんはうれしいし悲しいもんは悲しいんだなー、ということでした。だから、それ以来、海外にいくことと隣町にいくこととは同じくらいエキサイティングな体験、または同じくらい退屈な体験として感じることができるようになりました。そして思えば私自身、例えば幼稚園、小学生、・・・会社員・・とかをやってきて、それらはそれぞれ全く違う環境でしたが、それぞれけっこう楽しくやってきてるような気がします。だから、スリランカの子が教育を受けたくてしょうがなくて受けられないなら悲しいことですけど、その子が、アメリカとかにいって資本主義社会でカネを儲けたいから教育を受けたいと思っているのだとすれば、それはそれでもっと悲しいことだなー、と、思います。

豊かであるということ

私は海で遊ぶのがスキで湘南に住んでいるのですが、湘南の海遊びの権化みたいな人と一緒に何度か野生のイルカが住んでいる御蔵島に行ってイルカと一緒に泳いだりしたことがあります。海遊びの権化の人は年齢はオジサンですが、筋肉雑誌のターザンとかにでちゃうような筋肉モリモリで、色んな海遊びをやっていてすごくイイ顔で笑います。その海遊びの権化は、御蔵島でイルカと泳ぎながら、「イルカなんてアイツらさ、人間なんかよりぜんぜん頭良いからな」といって、マジに尊敬の眼差しでイルカを見つめます。私はこれをみてすごく楽しい気持ちになったのですけれど、「頭が良い」というのだって相対的な、というか人によって違う概念で、勉強ができるとか金儲けがうまいとかじゃあなくて、イイ絵をかくとかイイ文章をかくとか、または海を如何に自在に動き回れるのかとかいうことを「頭の良さ」として表現することを、すごくイイと思うのです。

だから、人は人を助けることなんてできない

だから、誰かは、誰かの価値基準で、誰かを助けようとなんてしなくて良い。私は人間なんてみんな平等にアホだと思っています*1から、誰かに誰かを助けることなどできないと思っています。これは、論理的には、そしてたぶん実際にも、人間はみな賢いから誰でも誰かを助けていると思っている、ということと同義ですが、だいたい、「誰かのため」というのは、何かの言い訳として言われる場合が多いようです。自分のエゴイズムを正当化するため、または「正義」を標榜して戦争という人殺しをするどこかの大国なんかと同様、カネを送ることで人を助けるなんていうのは、ときに卑劣な弁解だといわなければなりません。本当は人のためなどではなくて、それぞれが自分の投企を自分のためにしているだけに過ぎないのです。そして、自分のために生きる歓びのなかに自分と他人(例えば、スリランカの子)との愛のコミュニケーションを見出せないのならば、その人は全くつまらないビジネスマンでしかないでしょう*2*3

*1:ここ(私が特許を胡散臭いと思うワケ。そしてラブ&ピース。)ではこんなようなことをつらつらかいた。

*2:この部分は、寺山修司『家出のすすめ』のパロディです。
「だいたい「親のため」だけではなくて「・・・のために」という考え方は自分をごまかす理由になる場合だけが多いようです。エゴイズムを正当化するために、「わが子のために」などと方便を使ってPTA名士になりたがる社交おかあさんと同様、不幸な役を自分の人生で演じたいために「親のため」などというのは卑劣な弁解といわねばなりません。ほんとうは「親のため」などということはどこにもなくて、それぞれが自分の投企を自分のためにしているだけに過ぎないのです。そして、自分のために生きる歓びのなかに親との愛のコミュニケーションを見出せないのならば・・・・・あなたは全くのつまらない型の「孝行息子」でしかないでしょう。」
© 寺山修司『家出のすすめ』、「だれのための娼婦」角川文庫

*3:ちなみに、それに対する私なりのアクションとして知的財産を志していることは、例えばここ(なぜいま知的財産がオモロイのか?(3))とかにつらつらかいた。