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所有権のスピンオフとしての知的所有権

『「所有権」の誕生』という本を読んだ。おもろかった。*1

「所有権」の誕生

「所有権」の誕生

財産ということを法律(民法)的に考えるときに最も基本的なのは「所有権」という観念で、私としては(ネットを流れる)情報の価値をこの観念の延長で捉えているうちは誤解しか生まないような気がなんとなくしているのだけど、情報の価値には「知的所有権」という言葉を貼っつけて所有権観念のスピンオフとして考えることに一応はなっているから、あるべき知的財産の姿について建設的な議論をするためには、所有権というもんがなにもんかということはやっぱりちゃんと考えておく必要がある。

で、所有権を社会形態から論じた人は古今東西たくさんいるのだけど、所有権という観念が存在していること自体は前提になっていて、そもそも「所有権とは何か」を語っている人は意外と少ない。それはまあ所有権成立以前の文献というもんが存在しなくて、文献が存在しないもんを学問的に語るのはリスキーだかららしい*2

いまではネット上でバンバン情報が飛び交っていても文化的な生活の基本はやっぱり衣・食・住だし、衣と住とは場合によっては実はなくてもなんとか生きていけると思うけど、食がないとどうしても死んじゃうから、大昔から一番重要なのは食なんだと思う。で、農耕とかして植物を食べるにしろ、狩をして生物を食べるにしろ、この土地でとれたもんは俺のもんだよ!ということを(ないと死んじゃうという必要性から)言い出した人がいたであろうことはなんとなく想像できて、そういう土地所有権が所有権という観念の起源、らしい。

でも例えばいまでもモンゴルの遊牧民族なんかは土地に定住するということがないから、土地所有権という観念が、ない。だから、そういう人たちがどういうふうに生活をしてんのかということを観察すれば、所有権のある社会と所有権のない社会とを比較することで、所有権という概念がなにもんかということをえぐりだせるのではないか、という、そういう視点で「所有権とは何か」に真っ向勝負したのが本書。

あと、西洋人がアメリカに渡ってインディアンの生活をのっとっていくときに、土地所有権という観念を適用して土地をのっとっていった様子とかに触れられていて、それはやっぱり私としては、権力や資本主義がとりあえず自分らの都合良いように知的所有権という観念の適用を始めているいまのウェブ空間とシンクロする。アメリカ大陸の白人による開拓はそのままインディアンの生活を圧迫することになり、まあ大体がのっとられてしまったのだけど、インディアンの側もそれに対抗して自らの近代化をはかり、憲法を制定して統治機構を整備しようとした部族も出現した。これはGPLとかクリエイティブコモンズとかの動きとシンクロする。

とかなんとか、そういうことを読みながら考えました。

ところで、この本の書き出しにはルソーの『人間不平等起源論』の一節として、こんな文章が紹介されている。

「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の設立者であった。杭を引き抜き、あるいは溝を埋めながら、『こんな詐欺師の言うことを聞くのは用心したまえ。産物が万人のものであり、土地が誰のものでもないということを忘れるならば、君たちは破滅なのだ!』と同胞たちに向かって叫んだ人があったとしたら、その人はいかに多くの犯罪と戦争と殺人と、またいかに多くの悲惨と恐怖とを、人類から取り除いてやれたことだろう」
『「所有権」の誕生』(プロローグ、p.15)

ウェブ空間を飛び交う情報に囲いをして、「これはおれのものだ」と主張する人もいるけれど、情報や思想は誰のものでもないということを忘れるならば、君たちは破滅なのだ!

*1:ところでこの本、本屋を何軒か回ったんだけど置いてなくて、増刷もされてないから取り寄せもできませんといわれ、amazonでみたら古書であったんだけど定価より高くて、まあ読みたいから買っちゃうかなーと思ったんだけど、出版社のサイトにいったらフツウに売っててフツウに頼んだらフツウにソッコーで送られてきた。

*2:そういえば、考古学という学問の定義は文献の残ってない社会を研究対象とすることだ、というようなことをどっかできいた気がするけど、考古学と民法学のコラボレートってのは行われているんですかね