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考察・相鉄線100周年乗り入れ記念動画

横浜の相鉄線と他線との乗り入れが始まって4ヶ月経ち、タモリ倶楽部で取り上げられたりしていましたが、いまさらですが乗り入れ開始の時につくられた記念動画をみました。


二階堂ふみが黒ギャル!曲はくるり×サカナクションのマッシュアップ 大正から令和4つの時代を超えるラブストーリー  相鉄都心直通記念ムービー「100 YEARS TRAIN」

大正時代の相鉄車内ですれ違った男女が、昭和、平成、令和の100年前の時を越えてついに言葉を交わす短編。

なにこれ。めっちゃエモい。平成の車内風景に恥ずかしいくらい見覚えがある。なにこの再現性。平成ヒトケタの90年代にティーン(13-19)の時代をまるっと相鉄沿線で過ごしたあの頃の私は、横浜の片田舎で世界は自分中心に回っていると思っていて、茶色い髪でダボダボの服を着て、浮わついて粋がった感じで相鉄線車内で深く腰掛け大股開いてジャンプ読みながら、目についたギャルになれなれしく声かけたりしてました。はずい。

f:id:ysmatsud:20200424063858p:plain (3:25くらい)

そんなこんなで何回も観ちゃいましたが、ところでどこなんですかねこの駅。

ちょっとggってみたら、めっちゃつくりこんだという監督の方のツイートを発見。

なるほど。鎌倉の方?なのかな?横浜の片田舎の空気感も知っている方なのでしょうか。もろもろの設定はしっかりつくりこまれていると考えて良いのでしょう。それではそのつもりで考察してみます。と思ってggっていたら、こんなブログを発見。

blog.livedoor.jp

大和説。なるほど。そしてこの細部への考察。リスペクトです。ああでもないこうでもないと考えながらこのブログをみつけた時は、暗闇のなかで友人に出会ったような気持ちになりました。

しかし、この考察に敬意を表しながら、私は二俣川説を唱えたいと思います。相鉄線で乗り換えるなら二俣川か大和。新宿いくなら大和から乗り換えて小田急。だからこれは大和。それもわかります。ちなみに私は大和と二俣川の間にある希望ヶ丘の高校に通っていたので土地勘のあるエリアです。私も同じ2駅の候補が浮かびましたが、大和は先に消えました。大和は地下の駅で、前後もトンネルが続きます。大和なら前後の車窓風景は不自然だし、駅に解放感があり過ぎます。そして、決定的なのはこれですね。

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令和シーンでも同じ位置に同じものがみえます。これって、これですよね。二俣川駅の。看板の配置も一致するし。

f:id:ysmatsud:20200424071808p:plain Google マップ

設定からして横浜方面に向かう電車の先頭車両に乗ってるので、この位置に停まるのも辻褄が合います。実際には置いてないベンチがありますが、そこはご愛敬。二人は海老名方面からきた各駅にのってきて、テツオは二俣川で急行に乗り換えて横浜経由で新宿に向かうつもりだったのでしょう。横浜方面に向かって各駅はホーム右側に停まるというのもビンゴ。

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アイコ(相子)
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テツオ(鉄夫)
(名前は勝手につけました)

乗り入れ開始初日の相鉄線時刻表はこちら。アイコが二俣川駅に着く直前にみたスマホの画面は、11/30の10:09。10:10に二俣川駅につく各駅があるので、これに乗っていたわけですね。
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…と考えると、他の時代では二俣川駅で待ち合わせたカップルが乗ってくるのに(そして実際に沿線のカップルが二俣川駅の先頭辺りで待ち合わせることはよくある)、大正シーンだけはカップルも誰も乗ってこないのは、やはり終点だからでしょう。相鉄線は大正26年に開業した当初は厚木から二俣川までだったようです。その年のうちに上星川まで延線してるみたいなので、延線後の話という設定であっても良いと思いますが、そこは開業当初という設定にこだわったわけですね。

そうすると、大正シーンのアイコはなんで降りないんだという話ですが、なんでなんですかね。まあ、そんなときもありますよね。電車とまったけどすぐ降りないでなんとなくそのまま座って物思いに耽るとき。

そして思えば、平成シーンのテツオは、乗り換えるってわけじゃなさそうですよね。二俣川駅で仲間と待ち合わせて降りて、シルクハットでビリヤードでもしてからウッキーでカラオケでもするかって感じです。

残された課題

戻るか?

令和シーンで、テツオは二俣川駅を出た後、アイコに「ここで降りなきゃいけなかったんですよね」といわれ、「次で戻るんで」と答えています。そこ、戻るか?横浜駅に向かおうとして二俣川駅で乗り過ごした場合、相鉄民なら次の鶴ヶ峰で引き返して二俣川で急行に乗りなおすなんてことはせず、快速でも各駅でもそのまま乗って横浜いった方が早いと考えるのが普通だと思います。ここはよくわからないですが、いきなり知らない女性に話しかけられて、まあとりあえずコミュニケーションのために反射的に応えてみた回答であって合理性は求めないということでも、私は別に良いです。

二俣川駅で各駅は急行が出るのを待つはず

上記考察より、テツオとアイコが運命の言葉を交わしたのは横浜行の各駅の電車内と思われますが、二俣川では各駅は急行の出発を待って後から出るというのが普通だと思うので、各駅が二俣川に停まって、何も待たずにすぐ発車する、というパターンはないんじゃないかなという気がする。最近はそうでもないのかな。どうなんだろ。

2人の子供と写真、アイコの涙の意味は?

時代をつなぐキーとなるのが2人の子供の写真ですが、あの2人は誰なんでしょうね。初見では、幼い頃は仲が良かったけど離ればなれになったアイコとテツオの幼少時代の写真なのかなと思いましたが、そういうわけでもなさそうです。また、どのシーンでも車内を走る同じ年頃の子供2人がいますが、あの2人とこの2人は同じ2人のような気もします。どういうことなの?そして、令和シーンでは、そんな2人の写真をみながらアイコが涙を流しますが、あれも一体どういうことなの。

「100日後に特許査定を得る弁理士」1~5日目

このエントリは、パテントサロン企画「知財系ライトニングトーク #8 拡張オンライン版」への参加エントリです。

在宅勤務で ヒマなので 若干時間の融通が利くので、なんとなく思い付いてツイッターで始めたネタをまとめました。元ネタはもちろんワニです。1日目限りの一発芸のつもりだったんですがうっかり5日間続けてしまいました。明日もやるかは不明です。

(2020/4/15(水))
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(2020/4/16(木))
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(2020/4/17(金))
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(2020/4/18(土))
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(2020/4/19(日))
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このまま100日毎日やるのもしんどいし、正直もう気が済んだ感あるのでたぶんやらないですが、面談から2週間で原稿送り→案文チェックから出願まで1週間→早期審査請求すれば早いものは2か月くらいで査定(OA)くるのもあるので現実味はあると思います。ネタとしてもたぶん100日分くらいはあると思っていて、2週間といいながら手付けるのは原稿期限2、3日前だったり、図面の作成を外注したりする原稿作成のリアルとか、会派仕事、弁理士会のeラーニング、中途採用の面接官としてのZOOM面接、ちょっと気になる事務の女子とのふれあい、在宅勤務生活でのZOOM飲みやZOOM合コン、抜き差しならないたまの出勤など、ネタは尽きないかなと。この自粛ムードの中で場面がほぼ家の中に限られるのはワンパターンになって飽きる必至ですが、それもまた今の空気感そのものなのでネットに残るのは面白いかもなあという気はしています。誰かやってほしい。

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ちなみに最初に思い付いたときに横にあったボールペンでプリント紙の裏にぶっつけでかいてケイタイでパシャってアップしてます。ボールペンは100円ちょっとのユニボールのシグノというやつで、弁理士試験の論文も練習から本番までこれでやりきりました。論文試験に万年筆が必須だとかはダウトです。

それでは皆様ご自愛ください。

Mendeleyで使える東大ローレビューのCSLをかいた

大学院で論文を書くのに文献管理ソフトのMendeleyを使ってるんですが、東大ローレビューに沿った引用書出しのフォーマットがなかったのでつくりました。引用フォーマットのCSLはGitHubOSS管理されていたので、プルリクしてマスターにマージされました。各種ツールから正式に使えるようになってると思います。よろしければどぞ。
github.com

東京大学法科大学院ローレビュー
http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/

東京大学法科大学院ローレビューにおける文献の引用方法
(pdf) http://www.j.u-tokyo.ac.jp/students/wp-content/uploads/sites/5/2017/11/20180115quote.pdf

CSL概要はこちら。
http://docs.citationstyles.org/en/1.0.1/primer.html

CSL仕様はこちら。
http://docs.citationstyles.org/en/1.0.1/specification.html

Mendeley CSL Editor利用ガイド
(pdf) https://www.elsevier.com/__data/assets/pdf_file/0009/794700/mendeley_csl_editor_user_guide.pdf

CSLのVisual Editorの使い方。ただ、ここで紹介されているVisual Editorは動きが重いし出力に余計なタグがくっついてきたりしてなかなかうまくできなかったので、結局普通のテキストエディタでスクラッチからかきました。
https://marineasty.wordpress.com/2013/11/19/citation-style%E3%82%92%E7%B7%A8%E9%9B%86%E3%81%99%E3%82%8B/

筑波大の学生がつくって公開してくれていたらしきmendeleyの日本語マニュアル。2013年から更新されてないですが、とっても助かりましたありがとうございます。
(pdf) https://library.k.tsukuba-tech.ac.jp/k/ori/Mendeley.pdf

以下は余談です。

日本における法律アカデミアというのはなんやかんやいうて東大をお手本としていて、日本の法律学における論文の書き方のお作法は東大アカデミアにおける論文の書き方のお作法に倣います。

そして学術論文というものは何をもって学術論文なのかというと、過去の学術論文の成果を盛り込んだ上で新たな成果を加えるという作業が学術的といわれるようです。いくら斬新な着眼点や素晴らしいアイデアであっても、過去の論文の蓄積からの文脈で語れなければ学術的ではないのですね。

そこで、過去の学術論文を探し、読み、頭に貯めるのが学術論文をかくにあたっての基礎作業になります。こういう作業の支援はコンピュータは得意です。というわけで論文を管理するツールがあります。

www.zotero.org

とか

www.mendeley.com

とかです。広く使われていますが、日本語論文のフォーマットはあまりなく、東大ローレビューのフォーマットも当然のようになかったので、自分でつくりました、という話。

OSSライセンスを紐解く:GPLと2020民法大改正

120年ぶりの民法大改正

2020年4月、120年の時を超えてついに民法が大改正されます。

2006年に法務省が改正を打ち出す
→2014年に最終案を発表
→2017年に国会で可決
→今年いよいよ施行

という平成令和を股にかけたビッグプロジェクトです。

ここに、「定型約款」という概念がめでたく法律の条文として組み込まれることになりました。この改正によって、GPLApacheライセンス、MITライセンスなどのOSSライセンスの解釈や法的取扱いがどう変わるかを考えてみます。

OSSライセンスの法的性質

OSSライセンスというのが法律的にどういう性質のものなのか、というのはそもそも決着がついていません。決着がついてないというのは、揉めた場合に裁判所がどう判断するのかわからないという意味です。例えば、OSSライセンスが契約であるとすれば、コピーレフト条項は債務として発生するので強制執行が可能ですが、解除条件付の権利不行使宣言の意思表示としての単独行為であるとすれば、コピーレフト条項を強制執行させることはできないでしょう。この違いは、MITライセンスなどのパーミッシブ系で相手側に不作為を要求するだけのOSSライセンスではあまり変わらないかもしれませんが、GPLなど相手側に作為を要求するコピーレフト系のOSSライセンスでは、その効力が決定的に変わってきます。

定型約款とはなにか

改正民法の548条の2~民法548条の4に、定型約款についての条文が入りました。この条文に当てはまれば、OSSライセンスは契約としての効力を持ち得ることになります。

第五百四十八条の二 定型取引(ある特定の者が不特定多数の者を相手方として行う取引であって、その内容の全部又は一部が画一的であることがその双方にとって合理的なものをいう。以下同じ。)を行うことの合意(次条において「定型取引合意」という。)をした者は、次に掲げる場合には、定型約款(定型取引において、契約の内容とすることを目的としてその特定の者により準備された条項の総体をいう。以下同じ。)の個別の条項についても合意をしたものとみなす。
一 定型約款を契約の内容とする旨の合意をしたとき。
二 定型約款を準備した者(以下「定型約款準備者」という。)があらかじめその定型約款を契約の内容とする旨を相手方に表示していたとき。

結論からいうと…やっぱり関係なさそうですね (汗
これは、この要件に当てはまれば契約とみなしますということではなくて、そもそも当事者間に何らかの契約関係があることを前提として、約款の内容がこの要件に当てはまれば契約の内容に組み入れるものとみなしますよ、という話のようですね。というわけで、上述したOSSの取り扱いの違いは、そもそも契約が存在するかどうかという問題なので、そこに対して影響があるものではなさそうです。

とりあえずこちらからは以上です。

Apache License v2.0の特許条項を解説するよ

Apache License2.0の特許条項があんまり正確に理解されていない気がするので書いておきます。

Inspired by :
でかい企業のOSSがApache License 2.0だと嬉しい理由 - 西尾泰和のはてなダイアリー
図解:Apache License2.0の特許条項 | オープンソース・ライセンスの談話室
Apache Licenseの特許条項を読む - 未来のいつか/hyoshiokの日記

特許条項というのはこれ日本語訳)で、OSSに関する特許訴訟が起きた場合に、そのOSSに関するコントリビュータから自動的に付与されていた特許ライセンスを解除(terminate)する規定です。

catchさんへのオマージュとして図解します。

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でかい企業にとってはApache License2.0が安心な気がするというのもわからなくもないけど、実際問題としてこれに救われるケースは少ない。抑止力が働くのはcase2だけ。最も多くかつ厄介と思われるPAE (a.k.a. パテントトロール )が訴えてくる case3については無力だし、そうでなくてもcase4になる場合がほとんど。どこの会社でもよってたかってコントリビュートしてる人気OSSでなければcase2にはならないし、そのOSSで特許行使なんかするのはレピュテーションリスクが高いのでやらないでしょう。

Case 1 : OSS_AのユーザであるDが、OSS_Aに関する自身の特許に基づいて、OSS_Aに関係ないIを訴える場合
CからDに付与されている特許ライセンスはterminateしない。 ∵ Dの持っている特許がOSS_Aに使われている特許だったとしても、DがIに対してその特許の権利を行使することはApacheライセンスとは関係ない。

Case 2 : OSS_AのユーザであるDが、OSS_Aに関する自身の特許に基づいて、OSS_AのユーザであるEを訴える場合
CからDに付与されている特許ライセンスはterminateする。

Case 3 : OSS_Bに関係ないJが、OSS_Bに関する自身の特許に基づいて、OSS_BのユーザF、G、Hを訴える場合
JはApacheライセンスの拘束を受けないので関係なく訴えることができる。JがOSS_Bを使っていないならそれ以外にApacheライセンスのOSSを使っていても構わない。コンペティターが同じOSSを使っていなければ関係ないし、いわゆるパテントトロール(NPE)なんかはここ。

Case 4 : OSS_BのユーザであるHが、OSS_Bに関する自身の特許に基づいて、OSS_BのユーザであるGを訴える場合
Apacheライセンスにおける特許ライセンスのterminateに該当するケースだが、そもそも特許ライセンスがないので関係ない。Apacheライセンスでは特許の権利行使は著作権ライセンスには関係ないので関係ない * GPL3.0ではこのケースで著作権ライセンスを含むOSSライセンスそのものがterminateされるので抑止力がある

余談:コントリビュートする場面では、コントリビュータはOSSユーザに対して自動的に無償の特許ライセンスを付与することになるので、それ本当に無償の特許ライセンスしちゃって良いのかっていうのは「でかい企業」にとってむしろネックになりがち。

『JOKER』感想 / 物語なんていつだって恣意的に点と点をつなげたものでしかない 


映画『ジョーカー』特報【HD】2019年10月4日(金)公開

観た。面白かった。

とりあえず、この映画は「母親思いの真面目な青年が思いがけない悲惨な出来事を体験して悪人に変わる話」ではなくて、「格差社会の底辺で気が狂いながらギリギリ生きてる中年に不幸が凝縮されすぎて悪魔になる話」です。なんの救いもない。

以下ネタバレを含みます。





















名作映画というのが、自分こそがこの映画の理解者だ、と多くの者に思わせるものであるなら、これは名作なんでしょう。そういう魅力のある(といっていいのかわからないけど)映画だと思います。

この八方塞がり感。やばい。陰鬱。陰鬱でしかない。「どうしようもない八方塞がりの陰鬱」に共感を感じない人はこの映画を面白いと思わないのではないでしょうか。まあまあ思うように生きてる人にとっては気持ち悪い映画でしかないでしょう。あるいは他人事として評論する対象として、エピソードの点と点の謎解きに面白さを感じるかもしれません。この点はこっちの点とこうつながっていて、この点は事実で、ここの点は妄想、、、といったような。

でも私が感じたのはそうではなかったです。陰鬱でしかなく、楽しい場面なんかひとつもない。うわー、つらいわー、つらいでしかないわー、、、。それでも謎に違和感なく入ってくる共感。なんなんこれ。わからんけど。

そもそも作り話なのに事実と妄想との切り分けをするのもおかしな話で、謎解きをすることにも意味なんかなくて、だってこの映画に散りばめられた点のエピソードのそれぞれは、アーサーにとってすべて事実なんでしょう。

物語というのは、いつだって点と点と恣意的に結びつけたものでしかない。凶悪な台風がきてるときに自分に被害がでるかどうかなんて運でしかないし、チンピラに煽り運転されるかなんてのも運でしかありません。そしてそれぞれの出来事はそれぞれが独立した点なのであって、ある点と他の点のエピソードに関係をつけて理解しようとするのは主観でしかなく、点のエピソードのそれぞれが事実であるかどうかなんてのも主観でしかない。

「面白さなんて主観でしかない」ので良いんですけれども。

この映画は徹頭徹尾アーサーを中心に描かれていて、場面や時間がいったりきたりせずに素直に進んでいく。素直に没頭してみていれば、おおそうだったのねと思うところはいくつかあるものの、特に違和感や疑問はなくグイグイいって、はー、陰鬱、、、。陰鬱でしかないわ、、、というノリでたどり着いたラストシーン。あれも特に違和感なくみてたんですけど、あのラストシーンがなんなのか、というのは物議を醸しているようで。

1、夢オチ説
2、回想シーン説
3、マレーを殺した罪で捕まった説

私が違和感なくみてて感じたのはこのどれでもなくて、ジョーカーは、終盤でパトカーの上に立ち上がってシュプレヒコールの中でキモいダンスを踊った時、完璧な悪役として完成したんだと思うんですよね。完璧でしたよねあのキモい踊り。完璧な悪役として覚醒したジョーカー。彼は超人的なスーパーヒーローさえも翻弄する孤高の存在です。もはや警察に脅かされる消極的な存在ではなくて、警察を積極的におちょくって翻弄することを楽しむ知的サイコパス。だからあのラストシーンは、覚醒したジョーカーが自ら積極的に警察に潜入し、役人やカウンセラーをおちょくって遊んでるところなんだと思ってみてました。そういうことなんじゃないですかねあれ。しらんけど。

しかし人にオススメするかっていわれたら、しないですね。完成度も高いしすごいエネルギーのある映画だなとは思いますけど。1mmも楽しくない。もっと楽しい映画みた方が良いと思いますよみんな。

ソフトウェア特許から法哲学を経由して遡るトロッコ問題

ソフトウェア特許から遡って法哲学の森をさまよっていたら、哲学界隈で有名なトロッコ問題というのに出会いました。なるほどこれはソフトウェア特許が如何にあるべきかを法哲学的に考えるための訓練としても興味深そうです。

ロッコ問題

政治哲学者のマイケル・サンデルが白熱教室で披露して話題になったトロッコ問題はこれです。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

ロッコが線路を暴走している。このまま線路を走れば作業中の5人が轢かれて死んでしまう。あなたは線路の分岐器のすぐ側にいる。あなたが分岐器を操作すればトロッコの進路が切り替わり5人は助かる。しかし分岐先には別の1人がいて、5人の代わりにその1人が轢かれて死んでしまう。あなたは分岐器を操作するべきか?

ここでは、この問題を心理テストではなく、第三の答えを探す頭の体操でもなく、上手いこという大喜利でもなく、合理性をもった結論を導くための社会科学的な思考実験として考えます。

功利主義と義務論、あるいは

この問題に対し、分岐器を操作して5人を助けて1人を犠牲にすると答える人がいるでしょう。1人より5人が助かる方が良いというわけです。最大多数の最大幸福。これを功利主義というようです。

他方、分岐器を動かさずに5人を犠牲にすると答える人もいるでしょう。伝統的にはカントからくる義務論というのがこの立場とされています。人を殺すことは絶対的にいけないことであって、どんな理由や条件があってもいけないものはいけない。自分の意志で人を殺すことは絶対的に許されないと考えるならば、「5人を救うため」という理由さえも「1人を殺す」ことを正当化しない。こう考えることを義務論というようです。

この功利主義と義務論との対立軸がトロッコ問題の基本形。これだけでも色々と考えることができますが、派生しても色々と考えることができます。

功利主義的な考えでは、あなたが何もしなければ無事だったはずの1人を積極的に殺す選択をしているわけです。そこで例えば、自分の近くには体の大きなファットマンがいて、ファットマンはトロッコの暴走に気づいていません。あなたがその気になってファットマンを線路上に蹴落とせばファットマンは轢かれて死ぬが、その巨体に引っかかってトロッコの暴走は止まるでしょう。上の問題において功利主義的な選択をしたあなたは、ここでもファットマンを線路に蹴落とす選択ができるでしょうか。蹴落とすなら、一貫して合理性のある功利主義的な立場をとっているということができます。蹴落とさないなら矛盾します。5人を助けるために1人を殺す選択をするのが、あなたの選択ではなかったのか?

あるいは、もう少し、具体的に、自分の問題として考えてみましょう。あなたは、たまたまここを通りかかって分岐器の近くにいるだけの人でした。このまま5人が死んでもあなたには何の責任もありません。それでもあなたは、分岐器を操作するでしょうか。何の責任もないのに?実際には、気付かなかった振りをして通り過ぎる人もたくさんいるのではないでしょうか。

通りがかっただけの人というのが極端だったとすれば、分岐器を操作するのがあなたの仕事であるとしましょう。定められた時間に、定められたように分岐器を操作するのがあなたの仕事です。そんな折、暴走トロッコがやってきます。線路上にはまだ作業中の人がいます。あなたの判断で5人か1人のいずれかが助かりまたは死ぬという場面ですが、トロッコが暴走しているのはあなたのせいではありません。整備不良によりトロッコが暴走しているのなら整備工が見落としたせいだし、トロッコの運転手が居眠りをしているなら運転手のせいだし、その居眠りが運転手に休みを与えずに1週間働かせ続けているマネージャーのせいならそのマネージャーのせいだ。少なくともあなたのせいではない。しかしここで分岐器を操作して1人が死ねば、その1人が死んだのは少なからずあなたのせいだ。あなたが分岐器を操作しなけば、その1人は死ななかった。それでもあなたは分岐器のレバーを引くか?

あるいは、こんな前提条件がつくとどうでしょうか。
線路上で作業している5人は胸糞悪い卑劣な犯罪者で、分岐先の1人は善良な一般市民だったとしたら?
線路上で作業している5人は善良な一般市民だが、分岐先の1人はあなたの大切な友人だったとしたら?

…というトロッコ問題を、こう答えるとリバタリアン的、コミュニタリアニズム的、ケイパビリティ的、、、などと合理性を生むように考えてみると、社会科学的にものを考える訓練になりそう。また、登場する作業中の5人、分岐先の1人、分岐器、トロッコ、あなた、などを創作保護法としての知財法に置き換え、創作者、その他の公衆、創作物、法律、裁判所、立法者、行政、などをかわるがわる当てはめてみれば、ソフトウェア特許の制度が如何にあるべきかについてのヒントが得られたり得られなかったりするかもしれない。

知財制度というのも、抽象化すれば1人の利益とその他大勢とのどっちをとるか問題として考えることもできますからね。発明者に独占権を与えるのは他の大勢の人にとって自由に発明を実施する権利を制限することだし、著作者に独占権を認めるのは他の大勢の人にとって表現の自由に対する制限なのだから。