It's Not About the IP

- IP(Intellectual Property), Computer Technology, Ocean Life, Triathlon, and more

Mendeleyで使える東大ローレビューのCSLをかいた

大学院で論文を書くのに文献管理ソフトのMendeleyを使ってるんですが、東大ローレビューに沿った引用書出しのフォーマットがなかったのでつくりました。引用フォーマットのCSLはGitHubOSS管理されていたので、プルリクしてマスターにマージされました。各種ツールから正式に使えるようになってると思います。よろしければどぞ。
github.com

東京大学法科大学院ローレビュー
http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/

東京大学法科大学院ローレビューにおける文献の引用方法
(pdf) http://www.j.u-tokyo.ac.jp/students/wp-content/uploads/sites/5/2017/11/20180115quote.pdf

CSL概要はこちら。
http://docs.citationstyles.org/en/1.0.1/primer.html

CSL仕様はこちら。
http://docs.citationstyles.org/en/1.0.1/specification.html

Mendeley CSL Editor利用ガイド
(pdf) https://www.elsevier.com/__data/assets/pdf_file/0009/794700/mendeley_csl_editor_user_guide.pdf

CSLのVisual Editorの使い方。ただ、ここで紹介されているVisual Editorは動きが重いし出力に余計なタグがくっついてきたりしてなかなかうまくできなかったので、結局普通のテキストエディタでスクラッチからかきました。
https://marineasty.wordpress.com/2013/11/19/citation-style%E3%82%92%E7%B7%A8%E9%9B%86%E3%81%99%E3%82%8B/

筑波大の学生がつくって公開してくれていたらしきmendeleyの日本語マニュアル。2013年から更新されてないですが、とっても助かりましたありがとうございます。
(pdf) https://library.k.tsukuba-tech.ac.jp/k/ori/Mendeley.pdf

以下は余談です。

日本における法律アカデミアというのはなんやかんやいうて東大をお手本としていて、日本の法律学における論文の書き方のお作法は東大アカデミアにおける論文の書き方のお作法に倣います。

そして学術論文というものは何をもって学術論文なのかというと、過去の学術論文の成果を盛り込んだ上で新たな成果を加えるという作業が学術的といわれるようです。いくら斬新な着眼点や素晴らしいアイデアであっても、過去の論文の蓄積からの文脈で語れなければ学術的ではないのですね。

そこで、過去の学術論文を探し、読み、頭に貯めるのが学術論文をかくにあたっての基礎作業になります。こういう作業の支援はコンピュータは得意です。というわけで論文を管理するツールがあります。

www.zotero.org

とか

www.mendeley.com

とかです。広く使われていますが、日本語論文のフォーマットはあまりなく、東大ローレビューのフォーマットも当然のようになかったので、自分でつくりました、という話。

OSSライセンスを紐解く:GPLと2020民法大改正

120年ぶりの民法大改正

2020年4月、120年の時を超えてついに民法が大改正されます。

2006年に法務省が改正を打ち出す
→2014年に最終案を発表
→2017年に国会で可決
→今年いよいよ施行

という平成令和を股にかけたビッグプロジェクトです。

ここに、「定型約款」という概念がめでたく法律の条文として組み込まれることになりました。この改正によって、GPLApacheライセンス、MITライセンスなどのOSSライセンスの解釈や法的取扱いがどう変わるかを考えてみます。

OSSライセンスの法的性質

OSSライセンスというのが法律的にどういう性質のものなのか、というのはそもそも決着がついていません。決着がついてないというのは、揉めた場合に裁判所がどう判断するのかわからないという意味です。例えば、OSSライセンスが契約であるとすれば、コピーレフト条項は債務として発生するので強制執行が可能ですが、解除条件付の権利不行使宣言の意思表示としての単独行為であるとすれば、コピーレフト条項を強制執行させることはできないでしょう。この違いは、MITライセンスなどのパーミッシブ系で相手側に不作為を要求するだけのOSSライセンスではあまり変わらないかもしれませんが、GPLなど相手側に作為を要求するコピーレフト系のOSSライセンスでは、その効力が決定的に変わってきます。

定型約款とはなにか

改正民法の548条の2~民法548条の4に、定型約款についての条文が入りました。この条文に当てはまれば、OSSライセンスは契約としての効力を持ち得ることになります。

第五百四十八条の二 定型取引(ある特定の者が不特定多数の者を相手方として行う取引であって、その内容の全部又は一部が画一的であることがその双方にとって合理的なものをいう。以下同じ。)を行うことの合意(次条において「定型取引合意」という。)をした者は、次に掲げる場合には、定型約款(定型取引において、契約の内容とすることを目的としてその特定の者により準備された条項の総体をいう。以下同じ。)の個別の条項についても合意をしたものとみなす。
一 定型約款を契約の内容とする旨の合意をしたとき。
二 定型約款を準備した者(以下「定型約款準備者」という。)があらかじめその定型約款を契約の内容とする旨を相手方に表示していたとき。

結論からいうと…やっぱり関係なさそうですね (汗
これは、この要件に当てはまれば契約とみなしますということではなくて、そもそも当事者間に何らかの契約関係があることを前提として、約款の内容がこの要件に当てはまれば契約の内容に組み入れるものとみなしますよ、という話のようですね。というわけで、上述したOSSの取り扱いの違いは、そもそも契約が存在するかどうかという問題なので、そこに対して影響があるものではなさそうです。

とりあえずこちらからは以上です。

Apache License v2.0の特許条項を解説するよ

Apache License2.0の特許条項があんまり正確に理解されていない気がするので書いておきます。

Inspired by :
でかい企業のOSSがApache License 2.0だと嬉しい理由 - 西尾泰和のはてなダイアリー
図解:Apache License2.0の特許条項 | オープンソース・ライセンスの談話室
Apache Licenseの特許条項を読む - 未来のいつか/hyoshiokの日記

特許条項というのはこれ日本語訳)で、OSSに関する特許訴訟が起きた場合に、そのOSSに関するコントリビュータから自動的に付与されていた特許ライセンスを解除(terminate)する規定です。

catchさんへのオマージュとして図解します。

f:id:ysmatsud:20200106203149p:plain

でかい企業にとってはApache License2.0が安心な気がするというのもわからなくもないけど、実際問題としてこれに救われるケースは少ない。抑止力が働くのはcase2だけ。最も多くかつ厄介と思われるPAE (a.k.a. パテントトロール )が訴えてくる case3については無力だし、そうでなくてもcase4になる場合がほとんど。どこの会社でもよってたかってコントリビュートしてる人気OSSでなければcase2にはならないし、そのOSSで特許行使なんかするのはレピュテーションリスクが高いのでやらないでしょう。

Case 1 : OSS_AのユーザであるDが、OSS_Aに関する自身の特許に基づいて、OSS_Aに関係ないIを訴える場合
CからDに付与されている特許ライセンスはterminateしない。 ∵ Dの持っている特許がOSS_Aに使われている特許だったとしても、DがIに対してその特許の権利を行使することはApacheライセンスとは関係ない。

Case 2 : OSS_AのユーザであるDが、OSS_Aに関する自身の特許に基づいて、OSS_AのユーザであるEを訴える場合
CからDに付与されている特許ライセンスはterminateする。

Case 3 : OSS_Bに関係ないJが、OSS_Bに関する自身の特許に基づいて、OSS_BのユーザF、G、Hを訴える場合
JはApacheライセンスの拘束を受けないので関係なく訴えることができる。JがOSS_Bを使っていないならそれ以外にApacheライセンスのOSSを使っていても構わない。コンペティターが同じOSSを使っていなければ関係ないし、いわゆるパテントトロール(NPE)なんかはここ。

Case 4 : OSS_BのユーザであるHが、OSS_Bに関する自身の特許に基づいて、OSS_BのユーザであるGを訴える場合
Apacheライセンスにおける特許ライセンスのterminateに該当するケースだが、そもそも特許ライセンスがないので関係ない。Apacheライセンスでは特許の権利行使は著作権ライセンスには関係ないので関係ない * GPL3.0ではこのケースで著作権ライセンスを含むOSSライセンスそのものがterminateされるので抑止力がある

余談:コントリビュートする場面では、コントリビュータはOSSユーザに対して自動的に無償の特許ライセンスを付与することになるので、それ本当に無償の特許ライセンスしちゃって良いのかっていうのは「でかい企業」にとってむしろネックになりがち。

『JOKER』感想 / 物語なんていつだって恣意的に点と点をつなげたものでしかない 


映画『ジョーカー』特報【HD】2019年10月4日(金)公開

観た。面白かった。

とりあえず、この映画は「母親思いの真面目な青年が思いがけない悲惨な出来事を体験して悪人に変わる話」ではなくて、「格差社会の底辺で気が狂いながらギリギリ生きてる中年に不幸が凝縮されすぎて悪魔になる話」です。なんの救いもない。

以下ネタバレを含みます。





















名作映画というのが、自分こそがこの映画の理解者だ、と多くの者に思わせるものであるなら、これは名作なんでしょう。そういう魅力のある(といっていいのかわからないけど)映画だと思います。

この八方塞がり感。やばい。陰鬱。陰鬱でしかない。「どうしようもない八方塞がりの陰鬱」に共感を感じない人はこの映画を面白いと思わないのではないでしょうか。まあまあ思うように生きてる人にとっては気持ち悪い映画でしかないでしょう。あるいは他人事として評論する対象として、エピソードの点と点の謎解きに面白さを感じるかもしれません。この点はこっちの点とこうつながっていて、この点は事実で、ここの点は妄想、、、といったような。

でも私が感じたのはそうではなかったです。陰鬱でしかなく、楽しい場面なんかひとつもない。うわー、つらいわー、つらいでしかないわー、、、。それでも謎に違和感なく入ってくる共感。なんなんこれ。わからんけど。

そもそも作り話なのに事実と妄想との切り分けをするのもおかしな話で、謎解きをすることにも意味なんかなくて、だってこの映画に散りばめられた点のエピソードのそれぞれは、アーサーにとってすべて事実なんでしょう。

物語というのは、いつだって点と点と恣意的に結びつけたものでしかない。凶悪な台風がきてるときに自分に被害がでるかどうかなんて運でしかないし、チンピラに煽り運転されるかなんてのも運でしかありません。そしてそれぞれの出来事はそれぞれが独立した点なのであって、ある点と他の点のエピソードに関係をつけて理解しようとするのは主観でしかなく、点のエピソードのそれぞれが事実であるかどうかなんてのも主観でしかない。

「面白さなんて主観でしかない」ので良いんですけれども。

この映画は徹頭徹尾アーサーを中心に描かれていて、場面や時間がいったりきたりせずに素直に進んでいく。素直に没頭してみていれば、おおそうだったのねと思うところはいくつかあるものの、特に違和感や疑問はなくグイグイいって、はー、陰鬱、、、。陰鬱でしかないわ、、、というノリでたどり着いたラストシーン。あれも特に違和感なくみてたんですけど、あのラストシーンがなんなのか、というのは物議を醸しているようで。

1、夢オチ説
2、回想シーン説
3、マレーを殺した罪で捕まった説

私が違和感なくみてて感じたのはこのどれでもなくて、ジョーカーは、終盤でパトカーの上に立ち上がってシュプレヒコールの中でキモいダンスを踊った時、完璧な悪役として完成したんだと思うんですよね。完璧でしたよねあのキモい踊り。完璧な悪役として覚醒したジョーカー。彼は超人的なスーパーヒーローさえも翻弄する孤高の存在です。もはや警察に脅かされる消極的な存在ではなくて、警察を積極的におちょくって翻弄することを楽しむ知的サイコパス。だからあのラストシーンは、覚醒したジョーカーが自ら積極的に警察に潜入し、役人やカウンセラーをおちょくって遊んでるところなんだと思ってみてました。そういうことなんじゃないですかねあれ。しらんけど。

しかし人にオススメするかっていわれたら、しないですね。完成度も高いしすごいエネルギーのある映画だなとは思いますけど。1mmも楽しくない。もっと楽しい映画みた方が良いと思いますよみんな。

ソフトウェア特許から法哲学を経由して遡るトロッコ問題

ソフトウェア特許から遡って法哲学の森をさまよっていたら、哲学界隈で有名なトロッコ問題というのに出会いました。なるほどこれはソフトウェア特許が如何にあるべきかを法哲学的に考えるための訓練としても興味深そうです。

ロッコ問題

政治哲学者のマイケル・サンデルが白熱教室で披露して話題になったトロッコ問題はこれです。

f:id:ysmatsud:20190924213328p:plain

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

ロッコが線路を暴走している。このまま線路を走れば作業中の5人が轢かれて死んでしまう。あなたは線路の分岐器のすぐ側にいる。あなたが分岐器を操作すればトロッコの進路が切り替わり5人は助かる。しかし分岐先には別の1人がいて、5人の代わりにその1人が轢かれて死んでしまう。あなたは分岐器を操作するべきか?

ここでは、この問題を心理テストではなく、第三の答えを探す頭の体操でもなく、上手いこという大喜利でもなく、合理性をもった結論を導くための社会科学的な思考実験として考えます。

功利主義と義務論、あるいは

この問題に対し、分岐器を操作して5人を助けて1人を犠牲にすると答える人がいるでしょう。1人より5人が助かる方が良いというわけです。最大多数の最大幸福。これを功利主義というようです。

他方、分岐器を動かさずに5人を犠牲にすると答える人もいるでしょう。伝統的にはカントからくる義務論というのがこの立場とされています。人を殺すことは絶対的にいけないことであって、どんな理由や条件があってもいけないものはいけない。自分の意志で人を殺すことは絶対的に許されないと考えるならば、「5人を救うため」という理由さえも「1人を殺す」ことを正当化しない。こう考えることを義務論というようです。

この功利主義と義務論との対立軸がトロッコ問題の基本形。これだけでも色々と考えることができますが、派生しても色々と考えることができます。

功利主義的な考えでは、あなたが何もしなければ無事だったはずの1人を積極的に殺す選択をしているわけです。そこで例えば、自分の近くには体の大きなファットマンがいて、ファットマンはトロッコの暴走に気づいていません。あなたがその気になってファットマンを線路上に蹴落とせばファットマンは轢かれて死ぬが、その巨体に引っかかってトロッコの暴走は止まるでしょう。上の問題において功利主義的な選択をしたあなたは、ここでもファットマンを線路に蹴落とす選択ができるでしょうか。蹴落とすなら、一貫して合理性のある功利主義的な立場をとっているということができます。蹴落とさないなら矛盾します。5人を助けるために1人を殺す選択をするのが、あなたの選択ではなかったのか?

あるいは、もう少し、具体的に、自分の問題として考えてみましょう。あなたは、たまたまここを通りかかって分岐器の近くにいるだけの人でした。このまま5人が死んでもあなたには何の責任もありません。それでもあなたは、分岐器を操作するでしょうか。何の責任もないのに?実際には、気付かなかった振りをして通り過ぎる人もたくさんいるのではないでしょうか。

通りがかっただけの人というのが極端だったとすれば、分岐器を操作するのがあなたの仕事であるとしましょう。定められた時間に、定められたように分岐器を操作するのがあなたの仕事です。そんな折、暴走トロッコがやってきます。線路上にはまだ作業中の人がいます。あなたの判断で5人か1人のいずれかが助かりまたは死ぬという場面ですが、トロッコが暴走しているのはあなたのせいではありません。整備不良によりトロッコが暴走しているのなら整備工が見落としたせいだし、トロッコの運転手が居眠りをしているなら運転手のせいだし、その居眠りが運転手に休みを与えずに1週間働かせ続けているマネージャーのせいならそのマネージャーのせいだ。少なくともあなたのせいではない。しかしここで分岐器を操作して1人が死ねば、その1人が死んだのは少なからずあなたのせいだ。あなたが分岐器を操作しなけば、その1人は死ななかった。それでもあなたは分岐器のレバーを引くか?

あるいは、こんな前提条件がつくとどうでしょうか。
線路上で作業している5人は胸糞悪い卑劣な犯罪者で、分岐先の1人は善良な一般市民だったとしたら?
線路上で作業している5人は善良な一般市民だが、分岐先の1人はあなたの大切な友人だったとしたら?

…というトロッコ問題を、こう答えるとリバタリアン的、コミュニタリアニズム的、ケイパビリティ的、、、などと合理性を生むように考えてみると、社会科学的にものを考える訓練になりそう。また、登場する作業中の5人、分岐先の1人、分岐器、トロッコ、あなた、などを創作保護法としての知財法に置き換え、創作者、その他の公衆、創作物、法律、裁判所、立法者、行政、などをかわるがわる当てはめてみれば、ソフトウェア特許の制度が如何にあるべきかについてのヒントが得られたり得られなかったりするかもしれない。

知財制度というのも、抽象化すれば1人の利益とその他大勢とのどっちをとるか問題として考えることもできますからね。発明者に独占権を与えるのは他の大勢の人にとって自由に発明を実施する権利を制限することだし、著作者に独占権を認めるのは他の大勢の人にとって表現の自由に対する制限なのだから。

ソフトウェア特許から遡る法哲学/自然法論vs法実証主義

ソフトウェア特許っていったい何得やねんというところから遡って法哲学の森で迷子になっているわけですが、なんだかよくみる自然法論と法実証主義の対立軸というのがどういうことなのかなんとなくわかってきたような気がするのでメモ。

まず、自然法論とか法実証主義とかいうのはあくまでも考え方のフレームワーク。こういうのが自然法論ですよという定義があるわけではないし、パラメータをあてはめたら白黒判定できるアルゴリズムを与えてくれるわけでもない。「法とは何か」という問いに対し、抽象的な法の上位クラス(自然法)を想定することを出発点にして演繹的に考える方法論のひとつが自然法論であり、いまそこに実装されている法のインスタンス(実定法)を出発点にして帰納的に考える方法論のひとつが法実証主義である、とみた。

自然法論的自然権論的という言葉も使い分けられているようにみえたので何が違うのかと思ったけど、わりとみんななんとなくで使ってるっぽい。文脈によるし、「自然法論」と「法実証主義」も厳密に分けられるもんでもない。見方の問題。

これ系のフレームワークの礎になってるのがホッブズの「リヴァイアサン」。王の権利は神が与えたものであるという王権神授説から脱却するための論理的アーキテクチャの基盤をつくった。これは自然法論的という人もいるし法実証主義的という人もいる。そんなもんだ。

ホッブズがいったことを自然法論的かつ自然権論的かつ法実証主義的に説明すると、まずキリスト教的な世界観を前提として、神がつくったのが法であり、この法は明文化されるか否かを問わず存在している。これが自然法。自分のモノは自分のモノ、他人のモノは他人のモノ。人のモノをとったらダメ。人を殺したらダメ。なぜか?神がそうつくったからだ。人間は神から理性を与えられ、理性とは自然法を認識する能力である。そこで認識した自然法の下で、自分のモノは自分のモノであると主張する権利(財産権)、生きる権利(生存権)などの権利が観念される。これが自然権

しかし、自然権というのは広い。自分のモノが自分のモノであるなら、他人と闘って奪ったモノだって自分のモノではないか?気に入らないやつを殺すことだって、自分の平穏を保つための権利ではないか?(これが「万人の万人に対する闘争」)

そんなこといってたら秩序はなくなって人類は破滅する。それはいやだ。そこで、人民は、自身がもつ自然権を国家(権力)に預け、国家は国全体が安定するように自然権を運営する。これが国家と実定法の存在意義、存在根拠。国家は国全体をうまくコントロールするために実定法を制定し、裁判所を運営する。この自然権を預かった巨大な権力、それがリヴァイアサン。どういう法を制定したらより良く国を運営できるか?いまある法をどうアップデートしたら国はより良くなるのか?これが法実証主義

前半の、人は自然法の下で自然権を持った存在である、というところを強調すれば「ホッブズ自然権論者」ということになるし、後半の、国家が実定法を制定して運営して国をコントロールする、というところを強調すれば「ホッブズは法実証主義者」ということになる。

このフレームワークは、法や社会システムは個人と国家の契約に基づくという社会契約論として、後にロック、ルソーなどによってアップデートされていく。現代においてもジョン・ロールズの「正義論」がこの社会契約論を大幅にアップデートした。NHKでこれからの正義の話をしていたサンデル教授はこのロールズの正義論をアンチの立場からアップデートすることを試みている人。

自然法が実体化したのが実定法だといってしまえばどちらからも語れるわけだが、自然法自然権など存在せず法は実定法でしかありえないという極端な法実証主義者も存在するし(ジェレミ・ベンサム)、法は自然法でしかありえないという人もいる。

自然法論と法実証主義は時代によって使い分けられてきた。古代ギリシャの時代から自然法論の考え方はあって、産業革命に伴って客観的な法実証主義が発展したものの、法手続に則ったナチスの台頭があった反省から、再び自然法論が持ち出されたみたいな歴史があったりもする。

また、安定した時代には実定法を重視する法実証主義が支配的であり、他方、社会の大きな転換や科学技術の発展等によって実定法では理解できない未知の状況に直面する時代に自然法論が持ち出されるようだ。例えば未知の外国との交流が活発化したときなんかに自然法論が持ち出されたらしい。

というわけで、インターネット時代の特許どうあるべきか、という未知の議論では、自然法論的なフレームワークを使って考えるのが馴染むのではないかと思う。

「それでもやはり法実証主義的に考えるべきだ」と考えているのが田村善之先生で、ロールズの社会契約論をあてはめることで知財概念を再構築しようと試みているのが島並良先生ということなのかな?よくわからない。要勉強。

関連エントリ

インターネット時代の知財を再定義する試みβ(1) - It's Not About the IP
インターネット時代の知財を再定義する試みβ(2) - It's Not About the IP

参考論文等

自然法から自然権へ -権利思想のルーツを探る- 」(阿南成一/1981)
文献的にはもともと「自然法」(lex naturalis)という言葉が使われていたのがたんだん「自然権」(ius naturale)という言葉が使われるようになってきたらしい
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/12anan.pdf

「21世紀における知的財産権法哲学的考察 -知的財産権制度の再構築の視点から」(曹新明/2005年)
https://lex.juris.hokudai.ac.jp/coe/pressinfo/journal/vol_7/7_4.pdf

「FCV特許開放の正当化―正義論の視点から」(藤野仁三/2017年)
https://system.jpaa.or.jp/patent/viewPdf/2813

知的財産権に関するリバタリアンの議論」(森村進/2016年) https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10777&item_no=1&attribute_id=189&file_no=1

法哲学講義 (筑摩選書)

法哲学講義 (筑摩選書)

正義論

正義論

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

----以下、メモ----
自然法
・法と道徳に必然性があると考える
自然法は正しい規範であるから特定の社会で受け入れられていなくても法であり規範である
・法は成るものではなく、在るものである
自然法の究極の法源は神である。人間の理性を神から(分け)与えられたと考える場合、人間の理性に従うのは法に従うことである。
・自然状態における義務に注目するのが自然法論的であり、自然状態における権利に注目するのが自然権論的である

実証主義
・法と道徳に必然性がないと考える
・法は特定の社会で強制力を持って通用している実践であり社会的な事実である
・法は在るものではなく、成るもの、つくるものである
・ケルゼンの(法実証主義)純粋法学
・例えば殺人は不法だからサンクションを課されるのではなく、サンクションを課されるから不法なのである
・悪法も法

自然法論vs法実証主義
自然権論vsインセンティブ
儒家vs法家
≒立法論的vs解釈論的
≒自然的vs人工的
≒義務論的vs功利主義
≒マナーvsルール

人はなぜ創作するのか

(以下では、主に著作権や特許などの創作に絞った知的財産(権)をIPということにします)

IPとはいったい誰得で何得なのかを考えるにあたって法哲学まで遡って本や論文を読んだりしてますます思考が拡散している昨今でして、気が付いたら結局のところ人はなぜ創作活動をするんだろうか、ということについて考えています。理由として以下が考えられるでしょうか。

1.つくることがたのしいから
2.他人と共感したいから
3.誰かにほめられたいから
4.有名になりたいから
5.お金がほしいから

例えば私の場合で考えてみると、(それを創作活動というのもおこがましいですがここではそういう広義のものを含めて創作活動と考えることにします)

A このブログをかくのは、主に1.と2.ですね。「かきたい」というのがまずあって、次に「だれかが共感してくれたりしてくれたらうれしいな」というのもあると思います。3.もあるかもしれない。4.5.はないですね別に。

B 職務として法律判断の意見や見解を書いたり、契約書をおこしたり、プレゼンのためのパワポをつくったりプレゼンをしたりするのは仕事だからやってるという意味で俄然5.です。3.もあるかもしれない。1.2.はないとまではいわないですが意識していないです。

C 前職で特許明細書をかいていたときや、前々職でプログラムをかいていたときは、これも5.ですね。ただ1.もけっこうあったような気はします。いかにエレガントかを試行錯誤してコードをかくのはたのしい。そういう意味では3.もありましたね、クライアントがいる職務では、エレガントなコードがかければお金を払ってくれる上にほめてくれることもあります。

なんでこんなことを考えているかというと、IPがなければ創作意欲がなくなり創作活動がなくなるというテーゼに対して、ハイエクなどのリバタリアンが「そんなわけねーだろハゲ」といっているからです。いえ、ハゲとはいっていません。

リバタリアンたちがいう、「IPがなければ創作意欲がなくなるなんてウソ」というのは本当でしょうか。

リバタリアンたちがそういうのは色々理由があるでしょうが、その理由の一つは、IPというものがない時代から創作活動は行われてきた、ということです。シェイクスピアが戯曲をかいたときもベートーベンが作曲をしたときにもIPという観念はなかったが、それでも偉大な作品はうまれてきたし、太古の自体から踊りや劇や絵画や彫刻は創作されてきた。人間にとって創作というのは(たのしいから)自然に行うというわけです。

本当かな。

シェイクスピアとかベートーベンとか昔の偉大な創作者って、元々ものっそい金持ちの子だったり、パトロンがいたりしたんですよね。そういうんじゃなくて、日本での小説家とかも一昔前は金持ちで遊び人の道楽だったのが、著作権の発展によって、貧乏でも小説家になって一攫千金みたいな例がでてきた。そうでなければうまれなかった偉大な小説というのはあると思います。

うーむ。しかしそういう風にしてうまれてきた作品というのはある意味不純で、本当に偉大な作品というものはIPなんてなくても表現したいという迸る情熱からうまれてくるものなんだといえばそうなのかもしれない。どうなんだろう。自分のリンゴは他の誰かに食べられたらなくなるけど自分の著作物を誰かにコピられても自分の著作物がなくなるわけではない。それでも他人のコピる行為を禁止する理由(他人の自由を制限することを正当化する理由)はなにか。と考えると、その著作物からうまれる経済的利益を独占できなくなる、という話だけど、それってつまり上記A、B、Cでいうと、、、どれにもあてはまらないな。うーん。

D 米津玄師さんなんかがニコニコで曲を発表してたのも、最初は1.で、2.3.なんだろうと思う。これはたしかにIPがなくてもうまれていたような気がする。

E または例えば、アメリカのスラム街の黒人が「ここから抜け出すためにはNBA選手になるかラッパーになるしかない」といってラップをするのは4.や5.が主で、次に1.2.3.もある、という感じだろう。これはやっぱりIPがなければうまれないんじゃないだろうか。

F よくわからないが最近のお笑い芸人の騒動をみていると、ああいう人たちの行動原理っていうのもけっこう4.や5.が主で、次に1.2.3.がくるという感じなのかなと思ってしまう。

そしてこれが本題なんですけど、

G OSS活動に貢献する人、っていうのは、元々はもっぱら1.なんだよなあ。最近は職務としてやってる場合も多いからややこしいですけど。GNU/Linuxがうまれた経緯っていうのはもっぱら1.だった。

だとすると、リバタリアンがいってることは、正しいんだよなあ。
しかしやっぱりあれだな、Gがいえるのでその線で考えきることができれば思考の道筋が開けそうなもんだけど、私自身もヒップホップに人生を救われたと思っているので、Eがある以上、このリバタリアンの議論は素直に受け入れちゃいけない気がする。