It's Not About the IP

- IP(Intellectual Property), Computer Technology, Ocean Life, Triathlon, and more

ソフトウェア特許から遡る法哲学/自然法論vs法実証主義

ソフトウェア特許っていったい何得やねんというところから遡って法哲学の森で迷子になっているわけですが、なんだかよくみる自然法論と法実証主義の対立軸というのがどういうことなのかなんとなくわかってきたような気がするのでメモ。

まず、自然法論とか法実証主義とかいうのはあくまでも考え方のフレームワーク。こういうのが自然法論ですよという定義があるわけではないし、パラメータをあてはめたら白黒判定できるアルゴリズムを与えてくれるわけでもない。「法とは何か」という問いに対し、抽象的な法の上位クラス(自然法)を想定することを出発点にして演繹的に考える方法論のひとつが自然法論であり、いまそこに実装されている法のインスタンス(実定法)を出発点にして帰納的に考える方法論のひとつが法実証主義である、とみた。

自然法論的自然権論的という言葉も使い分けられているようにみえたので何が違うのかと思ったけど、わりとみんななんとなくで使ってるっぽい。文脈によるし、「自然法論」と「法実証主義」も厳密に分けられるもんでもない。見方の問題。

これ系のフレームワークの礎になってるのがホッブズの「リヴァイアサン」。王の権利は神が与えたものであるという王権神授説から脱却するための論理的アーキテクチャの基盤をつくった。これは自然法論的という人もいるし法実証主義的という人もいる。そんなもんだ。

ホッブズがいったことを自然法論的かつ自然権論的かつ法実証主義的に説明すると、まずキリスト教的な世界観を前提として、神がつくったのが法であり、この法は明文化されるか否かを問わず存在している。これが自然法。自分のモノは自分のモノ、他人のモノは他人のモノ。人のモノをとったらダメ。人を殺したらダメ。なぜか?神がそうつくったからだ。人間は神から理性を与えられ、理性とは自然法を認識する能力である。そこで認識した自然法の下で、自分のモノは自分のモノであると主張する権利(財産権)、生きる権利(生存権)などの権利が観念される。これが自然権

しかし、自然権というのは広い。自分のモノが自分のモノであるなら、他人と闘って奪ったモノだって自分のモノではないか?気に入らないやつを殺すことだって、自分の平穏を保つための権利ではないか?(これが「万人の万人に対する闘争」)

そんなこといってたら秩序はなくなって人類は破滅する。それはいやだ。そこで、人民は、自身がもつ自然権を国家(権力)に預け、国家は国全体が安定するように自然権を運営する。これが国家と実定法の存在意義、存在根拠。国家は国全体をうまくコントロールするために実定法を制定し、裁判所を運営する。この自然権を預かった巨大な権力、それがリヴァイアサン。どういう法を制定したらより良く国を運営できるか?いまある法をどうアップデートしたら国はより良くなるのか?これが法実証主義

前半の、人は自然法の下で自然権を持った存在である、というところを強調すれば「ホッブズ自然権論者」ということになるし、後半の、国家が実定法を制定して運営して国をコントロールする、というところを強調すれば「ホッブズは法実証主義者」ということになる。

このフレームワークは、法や社会システムは個人と国家の契約に基づくという社会契約論として、後にロック、ルソーなどによってアップデートされていく。現代においてもジョン・ロールズの「正義論」がこの社会契約論を大幅にアップデートした。NHKでこれからの正義の話をしていたサンデル教授はこのロールズの正義論をアンチの立場からアップデートすることを試みている人。

自然法が実体化したのが実定法だといってしまえばどちらからも語れるわけだが、自然法自然権など存在せず法は実定法でしかありえないという極端な法実証主義者も存在するし(ジェレミ・ベンサム)、法は自然法でしかありえないという人もいる。

自然法論と法実証主義は時代によって使い分けられてきた。古代ギリシャの時代から自然法論の考え方はあって、産業革命に伴って客観的な法実証主義が発展したものの、法手続に則ったナチスの台頭があった反省から、再び自然法論が持ち出されたみたいな歴史があったりもする。

また、安定した時代には実定法を重視する法実証主義が支配的であり、他方、社会の大きな転換や科学技術の発展等によって実定法では理解できない未知の状況に直面する時代に自然法論が持ち出されるようだ。例えば未知の外国との交流が活発化したときなんかに自然法論が持ち出されたらしい。

というわけで、インターネット時代の特許どうあるべきか、という未知の議論では、自然法論的なフレームワークを使って考えるのが馴染むのではないかと思う。

「それでもやはり法実証主義的に考えるべきだ」と考えているのが田村善之先生で、ロールズの社会契約論をあてはめることで知財概念を再構築しようと試みているのが島並良先生ということなのかな?よくわからない。要勉強。

関連エントリ

インターネット時代の知財を再定義する試みβ(1) - It's Not About the IP
インターネット時代の知財を再定義する試みβ(2) - It's Not About the IP

参考論文等

自然法から自然権へ -権利思想のルーツを探る- 」(阿南成一/1981)
文献的にはもともと「自然法」(lex naturalis)という言葉が使われていたのがたんだん「自然権」(ius naturale)という言葉が使われるようになってきたらしい
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/12anan.pdf

「21世紀における知的財産権法哲学的考察 -知的財産権制度の再構築の視点から」(曹新明/2005年)
https://lex.juris.hokudai.ac.jp/coe/pressinfo/journal/vol_7/7_4.pdf

「FCV特許開放の正当化―正義論の視点から」(藤野仁三/2017年)
https://system.jpaa.or.jp/patent/viewPdf/2813

知的財産権に関するリバタリアンの議論」(森村進/2016年) https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10777&item_no=1&attribute_id=189&file_no=1

法哲学講義 (筑摩選書)

法哲学講義 (筑摩選書)

正義論

正義論

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

----以下、メモ----
自然法
・法と道徳に必然性があると考える
自然法は正しい規範であるから特定の社会で受け入れられていなくても法であり規範である
・法は成るものではなく、在るものである
自然法の究極の法源は神である。人間の理性を神から(分け)与えられたと考える場合、人間の理性に従うのは法に従うことである。
・自然状態における義務に注目するのが自然法論的であり、自然状態における権利に注目するのが自然権論的である

実証主義
・法と道徳に必然性がないと考える
・法は特定の社会で強制力を持って通用している実践であり社会的な事実である
・法は在るものではなく、成るもの、つくるものである
・ケルゼンの(法実証主義)純粋法学
・例えば殺人は不法だからサンクションを課されるのではなく、サンクションを課されるから不法なのである
・悪法も法

自然法論vs法実証主義
自然権論vsインセンティブ
儒家vs法家
≒立法論的vs解釈論的
≒自然的vs人工的
≒義務論的vs功利主義
≒マナーvsルール

人はなぜ創作するのか

(以下では、主に著作権や特許などの創作に絞った知的財産(権)をIPということにします)

IPとはいったい誰得で何得なのかを考えるにあたって法哲学まで遡って本や論文を読んだりしてますます思考が拡散している昨今でして、気が付いたら結局のところ人はなぜ創作活動をするんだろうか、ということについて考えています。理由として以下が考えられるでしょうか。

1.つくることがたのしいから
2.他人と共感したいから
3.誰かにほめられたいから
4.有名になりたいから
5.お金がほしいから

例えば私の場合で考えてみると、(それを創作活動というのもおこがましいですがここではそういう広義のものを含めて創作活動と考えることにします)

A このブログをかくのは、主に1.と2.ですね。「かきたい」というのがまずあって、次に「だれかが共感してくれたりしてくれたらうれしいな」というのもあると思います。3.もあるかもしれない。4.5.はないですね別に。

B 職務として法律判断の意見や見解を書いたり、契約書をおこしたり、プレゼンのためのパワポをつくったりプレゼンをしたりするのは仕事だからやってるという意味で俄然5.です。3.もあるかもしれない。1.2.はないとまではいわないですが意識していないです。

C 前職で特許明細書をかいていたときや、前々職でプログラムをかいていたときは、これも5.ですね。ただ1.もけっこうあったような気はします。いかにエレガントかを試行錯誤してコードをかくのはたのしい。そういう意味では3.もありましたね、クライアントがいる職務では、エレガントなコードがかければお金を払ってくれる上にほめてくれることもあります。

なんでこんなことを考えているかというと、IPがなければ創作意欲がなくなり創作活動がなくなるというテーゼに対して、ハイエクなどのリバタリアンが「そんなわけねーだろハゲ」といっているからです。いえ、ハゲとはいっていません。

リバタリアンたちがいう、「IPがなければ創作意欲がなくなるなんてウソ」というのは本当でしょうか。

リバタリアンたちがそういうのは色々理由があるでしょうが、その理由の一つは、IPというものがない時代から創作活動は行われてきた、ということです。シェイクスピアが戯曲をかいたときもベートーベンが作曲をしたときにもIPという観念はなかったが、それでも偉大な作品はうまれてきたし、太古の自体から踊りや劇や絵画や彫刻は創作されてきた。人間にとって創作というのは(たのしいから)自然に行うというわけです。

本当かな。

シェイクスピアとかベートーベンとか昔の偉大な創作者って、元々ものっそい金持ちの子だったり、パトロンがいたりしたんですよね。そういうんじゃなくて、日本での小説家とかも一昔前は金持ちで遊び人の道楽だったのが、著作権の発展によって、貧乏でも小説家になって一攫千金みたいな例がでてきた。そうでなければうまれなかった偉大な小説というのはあると思います。

うーむ。しかしそういう風にしてうまれてきた作品というのはある意味不純で、本当に偉大な作品というものはIPなんてなくても表現したいという迸る情熱からうまれてくるものなんだといえばそうなのかもしれない。どうなんだろう。自分のリンゴは他の誰かに食べられたらなくなるけど自分の著作物を誰かにコピられても自分の著作物がなくなるわけではない。それでも他人のコピる行為を禁止する理由(他人の自由を制限することを正当化する理由)はなにか。と考えると、その著作物からうまれる経済的利益を独占できなくなる、という話だけど、それってつまり上記A、B、Cでいうと、、、どれにもあてはまらないな。うーん。

D 米津玄師さんなんかがニコニコで曲を発表してたのも、最初は1.で、2.3.なんだろうと思う。これはたしかにIPがなくてもうまれていたような気がする。

E または例えば、アメリカのスラム街の黒人が「ここから抜け出すためにはNBA選手になるかラッパーになるしかない」といってラップをするのは4.や5.が主で、次に1.2.3.もある、という感じだろう。これはやっぱりIPがなければうまれないんじゃないだろうか。

F よくわからないが最近のお笑い芸人の騒動をみていると、ああいう人たちの行動原理っていうのもけっこう4.や5.が主で、次に1.2.3.がくるという感じなのかなと思ってしまう。

そしてこれが本題なんですけど、

G OSS活動に貢献する人、っていうのは、元々はもっぱら1.なんだよなあ。最近は職務としてやってる場合も多いからややこしいですけど。GNU/Linuxがうまれた経緯っていうのはもっぱら1.だった。

だとすると、リバタリアンがいってることは、正しいんだよなあ。
しかしやっぱりあれだな、Gがいえるのでその線で考えきることができれば思考の道筋が開けそうなもんだけど、私自身もヒップホップに人生を救われたと思っているので、Eがある以上、このリバタリアンの議論は素直に受け入れちゃいけない気がする。

Javasparrow騒動で学ぶ商標登録制度

info-blog.javasparrow.tokyo

Javasparrow社の商標にオラクルが待ったをかけているのが話題になっていて、例によってブクマカ(死語)界隈では「知財権ふりかざすやつはevil」みたいなことがいわれているようです。が、単に商標登録制度というものが知られてないことによる誤解みたいなのも散見されるので少し補足を。

主にいいたいことは Perl商標登録騒動のときに書いた内容とかぶる ので、今回はブックマークコメントに勝手にマジレスするスタイルでいきます。

id:sangpingラクル側にとっては「はした金」で、Javasparrow側にとってはそれなりの額になる値段が見いだせれば、プライドにこだわらず普通に売り渡して、双方幸せになるシナリオも微レ存。/文鳥の英名って商標とれるんだな。

後半部分の「文鳥の英名って商標とれるんだな。」というのは、普通名称なのに個人(私企業)が独占的な権利をとれるんだな、ということだと思いますが、とれます。例えば「アップル」はリンゴの普通名称だけどコンピュータ界隈ではアップル社の商標です。商標登録制度では、商標と指定商品との関係を加味して登録可否を判断します。ジャンルが違えばOKということです。ペットショップが文鳥を売ることについて"Javasparrow"の商標をとろうと思ったらさすがにダメだと思いますが、スマホアプリについて"Javasparrow"の商標はOKです。果物屋さんがリンゴを売ることについて"アップル"の商標をとろうと思ったらダメだと思いますが、コンピュータ商品について"アップル"の商標はOKなのと同じ理屈です。

id:nicht-sein .amazonは結局amazon川流域の国家に対しても開放することを条件に米amazon社が勝ち取ってた記憶。なんにせよ、OracleはEvilだなぁ……

これはドメインの話かと。商標の話とドメインの話ってごっちゃになりがちですが、考え方はいろいろと別です。amazon社がアマゾン川流域の旅行ツアーの販売について商標権ふりかざしだしたらNGだと思いますが、インターネットサービスにamazonは商標的には問題になりにくいですね。

id:rna JAVATEAは1989年発売でJavaより先に世に出てるから商標権大丈夫では。
id:tarbo ジャワティー(JAVATEA)とかにも権利放棄依頼したんだろうか…
id:ryun_ryun 他社だけど、JAVATEAは既に訴えられているのかどうかがきになる。

これも同じですね、お茶とスマホスマホアプリはジャンルが違うので関係ないです。あと商標は特許などと違って登録要件に新規性は求められないので、商品「お茶」についてのJAVA TEAの商標が先に世に出て既に知られていることは、商品「スマホアプリ」についての「Java」や「Javasparrow」の商標登録の有効性とも基本的には関係ないです。
ちなみに特許庁の公開DB j-platpat でざっと検索すると以下の登録商標がでてきます。

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ラクルの(Sunの)前にいくつかの「ジャバ」周りの商標が登録されてますね。ジャンルが違うのでOKです。泉株式会社の「ジャバ」という商標は1974年に登録されて今も生きているし、大塚製薬によるお茶についての「JAVA TEA」の商標権も生きています。

id:monopole ふーんと思ったがこの会社IT系なのか。さすがにJavaを意識せずこの名前をつけたとは思えないが…

どうなんでしょうねー。「Java Sparrow」とかでなくあえて「Javasparrow」という名前にしているあたり、どちらかというとどうしてもこの名前をつけたかったけどオラクル社の「Java」商標をリスペクトして誤認しない方にあえて寄せているようにも思えます。

id:rryu 指定商品・役務からするとJavaが動くスマホでも作る気なのだろうか。今更感しかないが…

基本的にはスマホアプリのことをいってるんであってスマホ自体をつくるって話ではないと思います。スマホアプリをプレインストールすることもありえなくはないので指定商品にスマホもいれておくのはわりと普通かと。

id:comitlog よく知らないんだけどJavaScriptは大丈夫なの?
id:im_asukaラクルさんはJavasparrowに文句つけるより先にJavaScriptをどうにかするべきだったんじゃないの
id:wazpk6no こんなとこに難癖つける前にjavaScriptを何とかしろ!

JAVASCRIPT」の登録商標もSunからオラクルに受け継がれてるので、問題にならないでしょうね。

id:mutinomuti まずオラクルはジャワ島に使用権料を支払うべきでは?(´・_・`)スラップみたいな嫌な感じ
id:tanakh “「Javasparrowとオラクルとの間で業務上関連があるような誤解を招く恐れがある」” Javaはジャワ島に関係があるかのような誤解を招く恐れがあるからオラクルは権利放棄するべきじゃん?(´・_・`)
id:Helfard これではジャワ島の企業は壊滅では?

ジャワ島が商標権をもっているわけではないしスマホアプリの名産地なわけでもないので関係ないですね。iphoneのアップル社が農協リンゴ組合に使用権料払う必要ないくらい関係ないです。ちなみに関係ないですが日本でも缶コーヒーのジョージアとか地名だけど特定メーカーの商標として機能しているものもありますね。ボジョレーとかワインの名産地を商標として如何に扱うかみたいな話とかはいろいろ複雑な国際事情があったりしますがそれもまた別の話。

id:showii ジャワカレーと揉めたりしてないのかな。
id:Dai44 ハウスジャワカレーも訴えられるのか

これも商標的にはスマホアプリとカレーはジャンルが違うので以下略

id:stealthinu これは無理筋だろ。しかも特許庁への異議申し立ても通らなかったのに無効裁判請求してるとのこと。
id:Kil これ「JavaSparrow」にしてなくて良かったよね。英名そのものは「Javasparrow」という1単語ではなく「Java sparrow」という"ジャワのスズメ"、みたいだし。https://en.wikipedia.org/wiki/Java_sparrow

そうですね。良いか悪いかは別として、商標理論的にはそんなにどうしようもなく不条理に無理筋、ってわけでもないです。ちなみに異議申立でダメだったから無効審判やるってのも既定路線なので珍しい話ではないです。

商標の似てる似てないというのは結局のところ程度問題なんですね。オラクルの先行登録商標JAVA」との関係性では例えば以下のように考えると上から下に向かって拒絶される可能性が高くなると思います。  

文鳥
ジャバスパロウ
Javasparrow
JavaSparrrow
Java sparrow
JAVA sparrow

一番下だったら即アウトなんじゃないですかね、しらんけど。

一橋大学キャンパスツアー的な

前2回にわたってお送りしました「インターネット時代の知財を再定義する試みβ」のスピンオフとして、これを調べたり考えたりするのに一橋大学の図書館に籠ったときに撮った写真をいくつか挙げておきます。

インターネット時代の知財を再定義する試みβ(2) - It's Not About the IP
インターネット時代の知財を再定義する試みβ(1) - It's Not About the IP

全体像はこんな感じ。
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JR中央線国立駅から一直線に南に延びる大学通りの西側と東側にキャンパスがあります。国分寺と立川の間だから一文字ずつとって国立、というのがもともとの地名の由来のようで、箱根土地が文教地区としていろいろ頑張って誘致したみたいですね。いまではすっかり国立市(クニタチシ)として成立して「国立市立国立小学校」とか「国立ほげほげ歯科医院」とかあって文字面だけみるとコクリツの施設なの?と一瞬思ってしまうトリックにあふれています。この街で「国立」という文字をみたときはクニタチなのかコクリツなのか文脈から一瞬考えないといけないという面倒な感じなんですけどだいたいクニタチで合ってる。

一橋大学の図書館。
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一橋のキャンパスには伊藤忠太さんという築地本願寺なんかも設計した建築家が設計したものがけっこうあって、この方が妖怪のような何かをモチーフにするのが好きという癖があったようで、変わった妖怪のようなものがところどころにあります。この手前にもよくわからないレリーフがありますね。

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夜は時計台の文字盤が光ります。

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シンボル・兼松講堂と佐野善作先生。佐野善作先生はもともと皇居脇にあった一橋大学の前身である東京高等商業学校が大学に昇格した時の学長で、関東大震災で皇居脇のキャンパスが崩壊して国立の地にキャンパスを移したりとか色々とご尽力された方。

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キャンパス内は地域に開放されていて、朝なんかは近所の方が集まってラジオ体操やってたりします。キャンパス内の林にはカブトムシとかもいて、夏の早朝には近所の子供たちがカブトムシ採集で盛り上がっていたりする。

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兼松講堂の隣にあるのは矢野二郎先生の立像。佐野善作先生よりも前の商法講習所の時代から校長を務めていたりした方。

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佐野先生の左側にあるのが西キャンパス本館。「おおかみこどもの雨と雪」の前半は国立が舞台になっていて、花とおおかみおとこが出会うのはこの本館の教室です。

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本館の入り口部分。

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本館入り口のエントランス部分にあるレリーフ。ちょっと怖い顔してますが、よくみると左右で阿吽になっていて愛嬌があります。

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キャンパス内には指定文化財になっている建造物があるんですけど、この旧守衛所もそれ。

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西キャンパス奥にある陸上トラックから図書館を望む。

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西キャンパスから南側の道を一本隔てたところにある佐野書院は、佐野善作先生の住居跡。いまでは一橋大学の所有地です。

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東キャンパスの入り口。西キャンパス←→東キャンパスをつなぐ横断歩道は、一橋大学の授業時間に合わせて学生が移動するために赤と青の時間が調整されているとかいないとか。

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東キャンパス本館。この前にある池にふざけて入ると退学になるという噂。

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東キャンパスからちょっと離れたところにある寮。一橋大学の校章であるマーキュリーマークがあります。

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の近くにある多摩蘭坂の標柱。よくわかんないんですが、忌野清志郎さん率いるRCサクセションの名曲「多摩蘭坂」の聖地らしいです。忌野清志郎 さんがこの坂の途中のアパートに住んでいたことがあったらしい。


RCサクセション 多摩蘭坂 at 武道館 1981 (曲前が首都圏版より数秒長い地方版)

落ち着いた、品のある良い街ですね、国立。

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オマケ :皇居脇の一ツ橋にある如水会館渋沢栄一
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インターネット時代の知財を再定義する試みβ(2)

(承前)
ysmatsud.hatenablog.com

そんなわけで論文掘りをしているんですけど、いやあすごいですわ。まあまあ知財のこと知ってるつもりになっていましたけど、アカデミアの門の向こうに知らない世界が広がっていました。実務や弁理士試験には出てこない知財哲学の荒野。

早速その荒野で迷子になりかけているので、ちょっと道標としてのインデックスを。

知財権の根拠

知財っていったいなんで、なんのためにあるの、という理屈の再構築が議論されている。

公開の代償として独占権を与える、とかよくあるあれ。創作物が生む経済的利益の独占を創作者に認めることで創作のインセンティブを与える。帰結主義的か。

発明や表現は人格の発露だから、人格として保護すべきとする考え方。この発想は特許法の条文上にはないが、わりと真面目に議論されている。ソフトウェア産業における特許制度は害であることが実証経済学として証明されてしまったので、特許の存在意義はインセンティブ論では説明がつかない。そこでこれがもてはやされてるんだと思う。条文から読めないけどな!

破綻する特許―裁判官、官僚、弁護士がどのようにイノベータを危機に

破綻する特許―裁判官、官僚、弁護士がどのようにイノベータを危機に

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〈反〉知的独占 ―特許と著作権の経済学

〈反〉知的独占 ―特許と著作権の経済学

白田秀彰先生の「コピーライトの史的展開」には、英米においてもともとインセンティブ論だったところに自然権論が混じっていった過程が研究されている、、、のかな?

森村進先生は、財産権とはそもそも、財が希少であるからこそ支配権に関する争いを解決するためのルールなんであって、使ってもなくならないアイデアや表現など無限に複製できるものについて財産権というルールを設定するのは自然とはいえない、と主張されている。リバタリアン的な見地からIPを懐疑的に捉えているようだ。自然じゃないから。ふむふむ。

[論文] 森村進 / 知的財産権に関するリバタリアンの議論

財産権の理論 (法哲学叢書)

財産権の理論 (法哲学叢書)

  • 契約論

知財権の根拠を、所有権法でも不法行為法でもなく契約法に基づくものとして捉えなおそうとしているのが最近の島並良先生。まじすか。めちゃ尖ってる。教科書とか書いている大御所の先生が裏ではそんなぶっとんだこといってるなんて素敵。
曰く、特許制度は、市民の意思の総体として(選ばれた議員が)つくった特許法に基づいて運営されており、このスキームは市民自身の意思がベースだから、特許権は特許出願人と公衆との間の社会契約である。特許侵害とは、この社会契約の違反である。みたいな話。

kaken.nii.ac.jp

技術分野によって違うよねという話

  • 医薬品とか化学もの

薬なんかは開発のためにものっそい何億とか何百億とかのお金がかかるから、それを回収するために特許を与える必要があるし、内容を開示して重複研究を避けることは全体最適としても機能する。また化学式で発明を定義、特定できるから、侵害/非侵害も比較的わかりやすく権利行使場面でも概ね期待通りに機能する。

  • 機械とか構造もの

機械も構造ものなんかは図面でバシッと表すことができるし権利範囲が比較的明確なので権利行使場面でも機能する。

  • ソフトウェア

ビジネスモデルものの発明はポッと出のアイデアも多いから開発費用の回収という意義は希薄。サービスサイクルもはやく特許公開とかの前にバンバン公開されていくから特許公報として公開する意義も希薄。そして権利はあいまいな言葉で表されたクレームに基づいて解釈されるので、侵害/非侵害の明確な判断が困難、というか不可能。
→役に立ってないじゃん

じゃあもう特許制度なんかやめちゃえば良いじゃんという議論

じゃあもう少なくともソフトウェアの分野では特許やめちゃえば良いんじゃないの?と素直に思うわけですけど、そうできない理由は2つ。
・TRIPS協定27条。技術分野を任意に絞らないことが求められている。
・経路依存性。経済学や社会科学の用語で、制度として確立して組織ができてしまうとその組織自体が制度を維持することを目的として維持されてしまうということが起きる。ソフトウェア特許の世界でも、そのための特許庁、特許事務所、企業知財部員などの組織が既に出来上がってしまっているので簡単にはなくせない。…これはあるよなと思っていたんだけど、田村善之先生がこのことを既に経路依存性という社会科学用語で説明していた。すごい。

プロ・イノヴェイションのための特許制度の muddling through (5・完) : HUSCAP

こうなると、EPやUSは、特許の土俵には乗せるけどなかなか権利化させないというわけでうまくやってるよなと思う。

ちなみに分野に限らず、昔は技術を特許を特許公報として国の手間でみんなのみえるところに置いて公開するという意義があったけど、今日では個人でもインターネットで簡単に世界中に公開できるから、そういう意味でも特許制度の意義は薄くなってる、という話はあると思う。これも社会科学のアカデミックの文脈でどなたかが既に説明しているだろうか。

じゃあどうするのという議論

・ USでは、トロールによる特許侵害訴訟なんかでは損害賠償は認めても差止を認めないという判例が確立しつつある。日本でもこのようにすることは可能なはず。

・これはどこまで関係あるかわからないメタな話だけど、改めて読んで置きたいなと思ってる。インターネット後に目指す社会システムはフラットではなくステップでもなく、「なめらか」であるという提案。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

・これもメタな話だけど改めて読んで置きたいなと思ってる。気鋭の若手シャレオツ弁護士による、より良いインターネット後の社会を目指すための提案。

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

・ 田村先生は、特許を財産権というよりも行為規制として捉え直すことを提案している。これもまた尖ってますけど、すごくリーズナブルなように思う。胸熱。この論文の破壊力がやばい。興奮した。

プロ・イノヴェイションのための特許制度の muddling through (5・完) : HUSCAP

曰く、特許権は財産権のようなかたちをとっているがその実態は行為規制なんだし、行為規制である独占禁止法と場面場面で使い分けて、特許庁、裁判所、公正取引委員会の役割分担の問題として捉え直すのはどうだろうか、みたいな感じ。

すごい。感動した。大学の先生たちって、教科書かいたり判例解説したりしてるだけじゃなかったんや!!

インターネット時代の知財を再定義する試みβ(1)

ソフトウェアエンジニアをやっていた15年前、プロプライタリなソフトウェアを尻目に先端いきまくってるOSSがカッコよく見えて、インターネット/ソフトウェアに関する知財制度は考え直されるべきだ、と思ったのがもともと知財に興味をもったきっかけでした。

なんやかんやで大学院に通い始めたんですけど研究計画のためにつくったスライド晒す。

というわけで先行研究としての論文を探して読み始めているんですけど、なるほどー。インターネット時代に特許制度が馴染んでないと考えている人はアカデミックの世界にも確かにいるんですね。知らなかった。あの先生とかあの先生とかお名前は聞いたことありましたけど、けっこう尖ったこといってるんですね。面白いっス。

けっこう色んなところで色んな方が色んなこといってるので、色々インプットする前に、私の今の粗っぽいそもそもの思いみたいなものを忘れないうちにメモしておきます。

まだ知識も実務経験も積む前の12年前にほとばしるように書いたエントリも参考まで。

なぜいま知的財産がオモロイのか?(3) - It's Not About the IP
なぜいま知的財産がオモロイのか?(2) - It's Not About the IP
なぜいま知的財産がオモロイのか?(1) - It's Not About the IP

うーん、なるほど、こんなことを考えていたな。わかるわかる。わかるし、今考えていることは確かにこの延長にもあると思うけど、違うところは違うな。たぶんこのときに考えていたのはどちらかというと、インターネットとIP(知財)による「フラットな社会の実現」みたいなことだと思う。でも、例えばお金っていうか金融ってのはまさにそれなんだよね。地球を削らなくても、人間にとって価値があるお金を増やすことができる。それはやっぱり金持ちがますます金持ちになり貧乏人はますます貧乏になるシステムで、ある程度は虚構だしファックなマネーゲームだけれど、「地球を削らなくても価値を増やす、経済を回す」という問いには答えているんだと思う、たぶん。錬金術というのはお伽噺ではなく完成していたんだな。

どうなんだろう、めっちゃ現実に戻りますけど、いまソフトウェア特許の実務の世界で何が困るかっていうとですね。特許ありすぎなんですわ日本。USやEPがソフトウェアの特許に関して大きくアンチパテントの方向に舵を切った逆をいくように、日本では特許が量産されてる。時代遅れのプロパテント。特許庁代理人にとっては権利化数も増やして各々の権利も強くした方が仕事が増えて良いんだろうけど、そうじゃないでしょ。

ほらほら中山先生もいってますよ、中山先生のいうことはいつも正しい。

"知的財産制度自体が主役なのではなく、産業や文化の担い手が主役であり、知的財産制度はイノベーション促進の脇役であるという点を忘れてはならない。"
中山信弘「知的財産立国の更なる発展を目指して」 ジュリスト(No.1405)2010.8.1-15 p.7

Jurist(ジュリスト)2010年 8/15号 [雑誌]

Jurist(ジュリスト)2010年 8/15号 [雑誌]

そのプロパテント、少なくともソフトウェアの世界では、特許庁代理人しか得してなくないですか。なくなくなくなくなくないですか。

だって実務の世界で切実なのは自分が特許とることよりも、他者の特許を踏まないことですから。誠実に事業活動しようとする産業の担い手である企業にとって、自分が権利とれることよりも他社特許の監視コストが増えるっていう方が深刻なんですよ。わかるかな。

そして一方で、スタートアップが特許とるのは良いことだと思いますけど、ぶっちゃけて言いますけど、ソフトウェアの世界で、どーしても回避できない特許、またはどーしても潰せない特許、っていうのは、ない、とはいわないですけど、すごーーーく稀ですよ。あ、ここでいってるソフトウェアってのは、あんまり技術技術してない、ビジネスモデルっぽいやつのことですよ。ハードウェアとか医薬品とかはもちろん別ですよ。

ちなみに控えめに言いましたけど、個人的に言えば、ない、ですよ。絶対に非充足の理屈が立てられないと思った他社特許。ない。事務所で代理人としてプロフェッショナルに鑑定やってた時代から、違う意味でよりシビアに他社特許をみるようになった現在に至るまで。

というわけで、USやEPがソフトウェアの特許に関してアンチパテントの方向に舵を切ったのは上手くやったなって感じですわむしろ。うらやましい。とかいっちゃいけないのかもしれないけど。

(つづく)

リバタリアニズム事始め。あるいはソフトウェア特許はリバタリアンの夢をみるか。

特許ってなんなん?(ネガディブな意味で)

発明を公開する代償として独占権を与える?インセンティブを与えないと発明が秘匿されて技術も社会も経済も発展しない?

ほんと?

世界で最も使われているOSはLinuxですけど、独占権なんて与えなくても公開されてますしおすし。

AndroidLinuxベースだしOSSだし。最も使われているOSとはつまり最も使われているソフトウェアですけど、この世で最も使われているソフトウェアがLinuxなのはそれが無料だからではなくて、高機能で安定して動くからですけど。最も先にいってるソフトウェア技術にとって特許制度は貢献しているどころかむしろ脅威になっちゃってますしおすし。

IPランドスケープ
は?

ディープラーニングブロックチェーンなんかの尖った分野ほど、特許よりもOSSや論文の世界の方が全然先にいってますけど。

…という疑問が、特許制度に対する興味の根幹にあります。

これは必ずしも特許制度なんてクソだと言いたいわけではなくて、インターネット/ソフトウェアの世界における知財制度は如何にあるべきか、どうあったら技術の発展に寄与できるのかってもっと真面目に考え直した方が良いんじゃないの、という話です。これは実務的にいえば、インターネット/ソフトウェアの世界で事業をやっていくために如何なる知財戦略をとることが誠実であるか、という話でもあります。

こういう疑問に対して感情論でなく建設的に考えたいなと思って大学院に通い始めたわけですけど、アカデミックな研究のお作法みたいなものを学ぶ中で、リバタリアニズムというのを知りました。論文として何かを主張するのに完全な客観というのはありえないし、思想の軸がないといってることがブレて説得力もなくなる、というわけです。リバタリアンというのはよくわかりませんが共感できるところが多いような気がしていて、一橋大学法哲学の講義をされている森村先生がこのスジの研究をされて本を書かれているようで、せっかくなのでいくつか読んで染まってみようかと思っています。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

というわけでとりあえずこれを読んだのでメモ。

リバタリアニズムはかつてはリベラルの亜流と考えられていたが、現在ではこのように整理されていることが多い。

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(『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』森村進 p.14)

個人の自由は尊重するが経済への規制や財の再分配を擁護するのがリベラル。

経済の自由を尊重するが個人への介入を擁護するのが保守(コンサバティブ)。

個人にも経済にも介入するのが権威主義(オーソリテリアン)、あるいは人民主義者(ポピュリスト)。この極端な例が全体主義で、ファシズム共産主義はココ。

そして個人の自由も経済の自由も尊重するのがリバタリアン。基本的に、国家権力に裏打ちされる不効率な官僚機構に任せるよりも、市場経済に任せる方がうまくいく、と考える。

リバタリアニズムを分類する試み
リバタリアニズムを、「いかなる国家(政府)までを正当とみなすか」と「諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か」とを軸としてざっくりと分類すると以下のように考えることができる。共通していえるのは、個人の自由だけでなく経済の自由を尊重する、ということと、自己所有権というテーゼ。自身の精神と身体は、自身が絶対的な排他支配権をもつ。

正当な国家とは

個人の自由尊重の根拠
無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)、市場アナーキズム
国家なんていらない
最小国家
国防、治安、裁判、最低限の公共財の供給
古典的自由主義
←に加えてある程度の福祉、サービスも提供する「小さな政府」
基本権、自然権
生まれながらにしてもつ当然の権利だから
自然権論的無政府資本主義
マレー・ロスバード『自由の倫理』
自然権論的最小国家
ノージックアナーキー・国家・ユートピア
自然権論的古典的自由主義
ジョン・ロック『統治論』
アメリカ建国の父、トマス・ジェファーソン
森村進
帰結主義
その方が結果としてみんな幸せになるから
帰結主義的無政府資本主義
デイビッド・フリードマン『自由の機構』
竹内靖雄『国家と神の資本論
帰結主義最小国家
ランディ・バーネット『自由の構造』
帰結主義古典的自由主義
ミーゼス
ハイエク
アダム・スミスミルトン・フリードマン
契約論
理性的ならそうなるはずだから
契約論的無政府資本主義
ジョン・ナーブソン『リバタリアニズムの理念』
契約論的最小国家 契約論的古典的自由主義
ジェイムズ・ブキャナン『自由の限界』
デイビッド・ゴディエ『合意による道徳』

<雑考・メモ>
・特許というのは国家による設権的権利なので、無政府資本主義の立場からは認め難いということになると思う。
・アイデアや表現というのは人格の発露であると考えれば、特許権著作権は人格権であり基本権であり自然権であるということになるんだろう。アメリカなんかは特許実務的に発明者が誰であるかってめっちゃ厳しくて、あれって自然権的な発想なんだろうなと思っていたんだけどそういうことで良いんだろうか。
知財立国を言い出した小泉政権はやたら「小さな政府」をいっていた気がするが、あれはこのリバタリアン古典的自由主義というやつなんだろうか。竹中平蔵さんはこういう分類でいうとどの辺になるんだろう。
ハイエクというのはそういえば昔本を読んでエントリを書いたな。復習してみよう。
リバタリアンにとって自己奴隷化と臓器売買の是非という頻出命題があるらしいんだけど、自己奴隷に対する森村先生の見解は、「非。なぜなら将来の自分は現在の自分にとって他人だから」。こ、これは、、、寺山修司や。去り行く一切は比喩に過ぎない。
・特許の根拠には自然権論とインセンティブ論(帰結主義?)があって、インセンティブ論では最近のOSSによる技術革新とかに説明がつかないので自然権論が盛り上がってきてる、と思ってる。それって理解できるけど、やっぱり無理矢理こじつけた感ないですかね。「特許制度は既にあるからなくすべきでない」という前提に立ってる気がする。でもよくわかんないけど残ってるものは残す、というのもリバタリアンなのかもしれない。
リバタリアン的な発想からでてくるのが裁判所でなく私的な仲介、調停サービスであるADR
リバタリアン的な発想でいくと、刑事罰廃止論というのが当然にでてくる。損害賠償だけで良い的な。ジョンロックによれば、処罰権というのも本来は自然権で、誰もが早い者勝ちで持っていた処罰権を安定性と予見可能性のために集約したのが刑事罰
・「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」。政府は悪である。政府とは、無政府資本主義者以外のリバタリアンにとって必要悪として認める悪である。無政府資本主義者のリバタリアンにとっては不必要な悪である。
特許権著作権は独占排他的な財産権であるが、ここに損害賠償請求権と差止請求権とのを認めるかというのは政策的な問題であって、例えば利用を重視するなら、損害賠償請求権を認めるが差止請求権は認めない、という制度設計は理論上あり得る。
・ジョンロックがいうような、労働の結果として表れた財物はその労働を行った人のものだという考えを適用して、発明や著作物を生み出した者はその労働の成果としての無体財産についての排他的権利を得る、、というのは、一見スジが通っているけど突っ込みどころはある。例えば耕した土地や掘り起こした鉱物や採取した果実は物理的に必然的に独占排他的であり誰かが使えば(消費すれば)他の誰かは消費できないけれども、無体財産はそうではない。誰かが使っても他の人が使えなくなるわけではないし無くなるわけでもない。やはり無体財産は本来的に財産なわけではない。法律によってはじめて財物となる。無体財産が経済的な価値を持つのは、それが法律によって独占権が与えられて人工的に希少性を与えられるからであって、そうでなければ経済的な価値を生み出さない。ここでは表現や思想としての価値の話はしていない、あくまでも経済的な価値の話。やはり改めてでてくるわけだ、無体財産とは財物か?
・IPは表現の自由に対する制約といえる
・財産権とは、財が希少であるからこそ、その財の支配権に関する争いを解決するためのルール。使ってもなくならないものや無限に複製できるものについて財産権というルールを設定するのは少なくとも自然とはいえない。→森村先生はIPを懐疑的に捉えているようだ ∵自然じゃないから
リバタリアンが国による介入を嫌う理由の一つは、独占をきらうから。独占すると進歩がなくなり、市場による自由な競争状態にあれば進歩があるはずだと考えるから。
・市場による競争というのは弱肉強食をいっているのではない。市場における交換というのは等価交換ではなくて、お互いが利益を得るプラス・サム・ゲームである。
・とすると、独占禁止法というのはリバタリアン的なのかな、、
リバタリアンというのは、個々の人間が合理的で理知的にかつ利他的に行動することへの期待というか信頼のようなものを前提としているような気はする。人間がやってることって本質的には昔から変わらないと思ってるのでこれってちょっと無邪気のような気もするけど、昔は奴隷制度とか当たり前だったけど今日ではそうではないこととかを考えると、人間って全体として賢くなってるよねといえばそうなのかもしれないな。
リバタリアンであるハイエクは、『貨幣発行自由化論』(1976年)において、民間の銀行が競争して異なった通貨を発行する制度を主張したらしい。それってICO、仮想通貨じゃん。

↑以外でとりあえず手元に集めたのは以下。夏の間にこれだけ読んでみる。

法哲学講義 (筑摩選書)

法哲学講義 (筑摩選書)

財産権の理論 (法哲学叢書)

財産権の理論 (法哲学叢書)

リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

リバタリアニズム読本

リバタリアニズム読本

上記リバタリアニズムの思想をインプットした上で、改めてそういう視点で以下の「インターネット時代の知財を考える三部作」を読んでみる。

コモンズ

コモンズ

〈反〉知的独占 ―特許と著作権の経済学

〈反〉知的独占 ―特許と著作権の経済学

知財の正義

知財の正義